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ユニクロ帝国の光と影・写真.jpg(横田増生著/文藝春秋)

ユニクロ帝国の光と影

尊敬される経営者とはほど遠い実像を描き出す


 正直、ユニクロをどう評価すべきか迷っていた。
 値段の割に品質が良いから、シャツやソックスなどベーシックなものを少なからず購入していた人間にとって、ユニクロの存在をありがたいと感じる一方で、ファッション性に関しては物足らず、わくわく感を感じることはほとんどなかった(例外的に、ジム用ウェアに関しては、品質、デザイン、価格ともに優れていると思う)。さらに労働環境の劣悪さなどの悪い噂も聞く。その噂は多分本当だろうが、情報は断片的なもので、もっと正確でトータルな情報がほしかった。
 経済がグローバル・フラットな世界になりつつある中で、ユニクロのような存在が急成長するのも仕方ないのかと思いつつ、釈然としない自分がいた。ユニクロに関する本を読んだところで、ユニクロにとって都合の良い情報だけをもとに書かれたものだろうから時間の無駄であると諦めていた。

 こうしたさなかで見つけたのが、週刊文春10月31日号の記事『本誌が勝訴! ユニクロはやっぱり「ブラック企業」』であった。以前掲載された文春の記事『ユニクロ帝国「秘密工場」に潜入した!』と、単行本「ユニクロ帝国の光と影」(横田増生著)について、柳井氏が激怒し、名誉毀損であるとし、文芸春秋社に対して損害賠償2億2000円と、「ユニクロ帝国の光と影」の出版差し止めを求めて提訴したが、東京地裁は、記事は事実であるとして、訴えを退けたのだ。
 横田増生といえば、「潜入ルポ アマゾン・ドット・コム」(文芸春秋社)の著者である。半年にわたる物流現場の潜入ルポを通じて、非人間的な労働環境をリアルに伝えてくれた人物であり、信頼できるジャーナリストの一人である。その横田氏がユニクロについても同じような本を出していたのだ。出版は2年前だが、うかつにも私は気づかなかった。すぐに読みたくて、amazonで注文してしまった。

 前置きが長くなった。さっそく本題に入ろう。
 本のタイトル通り、光と影について書かれている。「光」とは、ユニクロ急成長の秘密である。本書を読まなくても、ユニクロ主導により多くの本が出されているから、それらを読んでも分かるだろうが、本書においてもわかりやすく解説されている。
 従来のアパレル業界の複雑な流通構造を改革するSPA(製造小売り)の手法を徹底的に取り入れて、驚異的な急成長を果たし、デフレ時代にあっても一人勝ちを続けるユニクロの経営システムが分析されている。私もファッションビジネスの業界誌に10年近くいたから理解できる。メンズ、レディスを超えたユニセックスのベーシックカジュアル商品のヒットがどれだけ大きな利益をもたらすかも分かる。品番を絞り込んだ大量生産なので、柄つきのアウターを着ると、同じ商品を着た人間と街で出くわす可能性も高く、「ユニばれ」が嫌だという消費者心理もわかる。だから、無地かベーシックな柄がよく売れる。

 私が興味深く読んだのは、もちろん「影」の部分だ。なぜ、執行役員が辞めていくのか。地元宇部の商店街の顔役でもあった父親の桎梏。そして国内店舗の労働環境、中国の製造現場での環境などを、独自調査によってつぶさに調べて書いている。そして最後の、世界のファッション小売り最大手、ZARAを擁するインデックス社を取材して、もう一つのグローバル企業のあり方を提示している。いずれも期待通り以上のものだった。

 世の中には、金儲けの才能があっても、絶対に付き合いたくない人間がいる。本書を読む限り、柳井氏は、Barカウンターで一緒に酒を飲みたくないタイプの一人だ。最初からそんな可能性はもちろんゼロだけど。
 それにしても人間の欲望とは果てがない。日本一の富豪となっても、彼は成長を続けないと倒れると、いつも危機感を抱きながら馬の尻を叩き続ける。だが叩かれる馬は、たまったものでない。柳井氏をはじめ世界の強欲経営者とは、デズモンド・モリスのいう「征服欲」に憑かれた人間なのかもしれない。

 企業だから成長をし続けることが使命であることは分かるが、私が一番嫌悪するのは、彼はユニクロで働く社員を自分の欲望を満たすための駒にしか考えていないことだ。完全な使い捨て発想である。だから、新しい人生を賭けてユニクロに入社した社員たちの離職率がどれほど高くても、鬱病になる社員がどれほど多くても平気でおられる。
 ユニクロの200坪前後の標準店は、店長、(店長)代行者、地域限定社員か契約社員、凖社員とアルバイトで構成されており、全員で40人前後。正社員は店長と代行者の2名で、あとは非正規雇用である。店長の労働時間は月300時間前後で、サービス残業も行われている。分厚いマニュアルに基づいて息もつけないほどロボットのように働き続ける。ブラック企業といわれる所以であり、どれほど成長をしても、一部の信者を除いて柳井氏が多くの人に尊敬されることはないだろう。

 ちなみにZARAに関しては、私自身、遊び心のあるデザインが好きで、ユニクロほど安くはないが、ファッション性の高さに比してリーズナブルな価格設定からファンとなり、ときどきショップで服を購入することはある。だが企業としての実態はほとんど知らなかった。本書を読むことで、SPAという手法は同じながらも、デザイン、スピード、人件費などに関する考え方が、ユニクロとは対極的な存在であることを知ることができたのは思わぬ収穫だった。そしてますますZARAファンになったことは確かである。

 最近、ユニクロは、売上が1兆円を超え、今後5兆円企業を目指すことを発表したばかりであり、依然として鼻息は荒い。だが本当に目標は達成するのだろか。私には無理な気がする。我が世の春を謳歌してきた企業が、アクセルとブレーキを踏み間違えただけで没落した例は山のようにある。失速するときは、恐ろしく早い。ましてや社員を駒にしか考えていない企業が危機に陥ったとき、社員は一緒に存続のため闘ってくれるだろうか。それを期待するのは虫が良過ぎよう。いっせいに船から降りるに違いない。



台湾人生.jpeg(酒井充子著/文藝春秋)

台湾人生

日本への複雑な感情を吐露する
台湾の日本語世代のリアル


 ドキュメンタリー映画「台湾人生」は、日本統治時代に日本人として育った台湾の日本語世代の人々に取材をしたものだ。その映画を元にして新たに活字にしたのが本書である。

 本書を読みながら、台湾の日本語世代が語る言葉に何度も胸が締め付けられた。しみじみ心の奥底まで浸みた。世の中とは理不尽なもの、不条理なものだとは分かっていても、日本人になるための教育を受けた日本語世代が受けた皮肉な運命、そして日本への愛憎がない交ぜになった複雑な感情を知るにつれ、戦後世代のこちらまで切なくなる。

 ご存知のように、台湾は日清戦争後、清から割譲され、以後、太平洋戦争の敗戦までの約50年間、日本統治下にあった。同化政策、皇民化教育により、日本語で日本人としての教育を受け、戦争中は戦況が苦しくなると日本兵としてアジア各地で戦った。
 戦争に負けた日本が台湾から去った後に、中国大陸から蒋介石が率いる中華民国軍が台湾に入ってきた。台湾の人々は、最初これを歓迎したが、この軍隊はごろつきであり、略奪の限りを尽くし、台湾人を支配下においた。そして1947年、2,28事件が起き、約2万8000人の台湾人が殺害・処刑された。
 1949年には共産党との戦いに敗れた国民党は台湾に臨時政府を立ち上げ、反体制運動に対しては逮捕、拘禁、拷問、処刑という白色テロを行った。2,28事件は戒厳令下のもととで長い間、口にすることさえできなかった。戒厳令が解かれ、自由に発言できるようになったのは、1987年のことである。その2年後、2,28事件を扱ったホウ・シャオシエン監督の「非情城市」が上映され、ヴェニツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。

 同じ漢民族でありながら、日本兵として闘った台湾人を国民党は敵国人とみなし、さらに国民党および外省人が台湾に居座って以来、北京語が公用語になり、日本語を使っただけで、殺される人も多かったという。植民地であったものの、法治国家であった日本統治時代を懐かしむ台湾人が多いのもこうした事情による。歴史に翻弄された日本語世代の人々は、日本への様々な愛憎を抱えたまま生きてきたのである。

 1969年生まれの著者の酒井充子さんは、台湾旅行のときにバス停で、ある台湾の老人から奇麗な日本語で話しかけられたことをきっかけに、日本語世代の存在に興味を持ち、その後、何度も台湾に足を運び、取材を続けて、ドキュメンタリー映画を制作した。そして本書では、日本語世代が語る言葉を、一切の細工をせずにそのまま紹介している。だからリアルであり、読み手の心を激しく打つ。彼らの言葉には、追慕、思慕、痛恨、哀切、怒り、悔恨、無念、落胆などさまざまな感情が渦巻いており、自分たちの思いを伝えたいと痛切に願っていることが分かる。
 以下は、私が読んでとくに印象に残った言葉をピックアップしたものである。


<陳清香さん(1926年生まれ)の場合>
 日本は台湾を植民地化にして、五十年も教育して、五十年も税金取って、五十年も戦争に参加させて死なせてなんで責任がないの? われわれに将来を選択する投票もさせないで、勝手に自分が逃げて帰って、あとは知らない。
 それで台湾人は殺されたの。日本がおったらわたしたち殺されない。日本人がいなくなったから。武器も何もないでしょ。だから彼らは中国から来て、海岸上がってシャーとみんな撃ったのよ。

 台湾人のように、各国に占領されて植民地にされて、蹴鞠みたいに蹴られて今日に至って、わたしたちはいったいなに人? 自分でもわからないような人生を過ごしてきた。ほんとうにね。生き甲斐のない人生を送ってきた。どの国にも捨てられた。殺された。

 かわしそうなわたしなんか、国民党からは、日本教育を受けたから敵に回されて。無学文盲になった。情けない。泣き寝入り。わたし個人の恨みはいいよ。台湾人としてね、こんなにも日本の教育を受けてこんなになったのになんでわれわれを捨てたの。なんで陰ながらでも守ってくれないの、というのがわたしの願いなの。


<蕭錦文さん(1926年生まれ)の場合>
 軍曹が、ぼくたちにチャンコロと言ったのは、本当に悔しかったですよ。涙が出ました。当時、台湾は植民地だったから不平等な待遇を受けていて、戦場に出て兵隊さんと一緒になれば平等になると思っていただけに、そのひと言は永遠に忘れません。むろんぼくたちは小さかったから、将校たちにはかわいがってもらっていました。
 ただ、この軍曹だけは一生忘れません。このひと言。今でもまだ悔しくて。同じように国のために出ているのにどうして、と。

 戦死した友を思うと涙が出ます。ぼくたちは日本に捨てられて、そして敵対国の支那人に押し込まれて嫌な国に籍を置かなきゃいけなくなっちまって。
 悲しかったのは、帰ってから中国(中華民国)籍に入れられて。これはもうほんとに悲しかったですよ。あのときは、泣いたですよ。日本軍人として戦った相手の敵の国の籍に入れ替えられて、なんだろうとぼくは日本政府を恨んだですよ。国が戦争で負けたからといって、こんな目に遭わなきゃならないのかと。
 人生というものはいろんなことに遭遇するけど、このことがもっとも悲しい出来事だった。

 わたしの見方では、戦後来た人たちは、台湾を治めるという気持ちはなかった。台湾はおれたちが制圧した戦利品だから、という気持ちで台湾に来ておって。なんでも金になるものは、自分たちのもんだという考えで来たわけだ。だから来た人たちは文化的に法というものを守っていません。おれから制圧したところだから、何でも全部取れると。

 国民党との話し合いの最中、三月八日、国民党の援軍が基隆に上陸しました。ぼくが勤めていた新聞社の編集長は満州人でしたが、あとで捕まって銃殺されたと聞きました。ぼくも捕まった。
 捕まえられてものすごい拷問を受けました。銃身の先でぽんぽん打たれて自白しろと。自分のことで拷問を受けたんじゃない。叔父が二二八事件処理委員会の委員で、名簿に名前があったからです。向こうの軍隊が上陸してこの人たちを捕まえて殺していた。


<宋帝國さん(1925年生まれ)の場合>
 しょうがないもんだから、ほんとに学校をやめようと思ったの。で、先生のところに行った。そしたら先生は何も言わないで、「宋くん、いまが大切だ」と、ポケットに五円札を入れてくれた。「宋くん、がんばりなさい」と。当時の五円札は大金だった。大きな金だった。ぼくは涙を流しながら、「先生、わたしは必ず成功します。どんなことがあっても成功してみせます」と誓ったの。

 三十何年ぶりだよ。なんにも言えない。なんにもいえずに。もう笑顔いっぱいだ。笑顔でいっぱいで、「あー、そうていこくー」「せんせい」。もうなんとも言えない。ところがそれからわずか二年あまりだったかして、先生が病気にかかったの。もう、わたしは日本に飛んでいって、ずっと一週間以上ですね、先生が目を閉じるまで病院で看病した。

 先生のことはいつも気になる。かつての恩は忘れられない。とにかく先生がくれた恩は誰よりも親よりも兄弟よりも暑く、いい先生だった。涙のこぼれるような思い。なんともいえない敬愛すべき先生。思えば思うほど一生で一番いい先生だったよ。何と形容していいか。「宋くん、がんばりなさいよ」、いつも思い出します。


<タリグ・プジャズヤンさん(1928年生まれ)の場合>
 日本人の警察は、原住民と同じような生活をして、原住民を嫌わないで、原住民風な身なりをして暮らしていた。そこまでやってたんですよ。だから、親しまれたんですね。でも、原住民と警察の関係が良くないところもあった。霧社がそうだったんですね。

 日本は敗戦して台湾を放棄したんだけど、しかしそれだけ長い間付き合って、文化、生活も慣れてくると、深い情が残って忘れませんよ。いまだれも気づかんけど、台湾の原住民が世の中のことを知るようになったのはやっぱり日本の力なんです。だから恩は恩。


(新雅史著/光文社新書)(酒井充子著/文藝春秋)

商店街はなぜ滅びるのか

〜社会・政治・経済史から探る再生の道〜

昭和初期に人為的につくられた商店街。
繁栄と衰退の歴史を膨大な資料で解明する


 日本の商店街の惨状はひどいものだ。私のオフィス近くにある宇治川商店街も、かつては大変な賑わいであったそうだが、いまは、シャッターが降りているところも多く、寂しい限りである。
 これは日本全国に見られる光景である。買い物は、近くの商店街ではなく、郊外の大型SCへ。車に乗る人には便利かも知れないが、乗らない人やお年寄りは「買い物難民に」ならざるを得ない。一方、ヨーロッパやアジアを旅行すると、で活気のある地元の商店街を見ることが多く、そんなときは嬉しいし、安堵する。やっぱり、こっちの方が幸せだと思うのだが。なぜ、日本の商店街は、衰退したのだろうか。再び活気を取り戻す方法はあるのだろうか? こうした関心を抱き続けていたときに見つけたのが、本書である。

 商店街の誕生から隆盛、そして現在にいたる衰退の歴史とその要因・背景については、社会・政治・経済的側面から、豊富な関連資料を駆使しながら説明してくれている。さすが、東京大学大学院卒者らしい生真面目かつ誠実な態度で論旨が展開されており、好感をもつ。

 実は、商店街は、第1次大戦以降に誕生したものであると著者は指摘する。第1次大戦中こそ戦時景気に沸いていたが、大戦終了後、不況に陥り、その後、大正12年の関東大震災、昭和2年の金融恐慌、昭和5年の昭和恐慌と、数年おきに恐慌が押し寄せてきた。この不況が農村に決定的なダメージを与え、離農者の多くが都会に出てきた。だが、工場や会社に勤めることはできたのは少数であり、多くが零細自営業者への道を歩む。商売は無計画で長く続かなかったり、中には悪質な商売をする者もでてきて、これらが社会問題になった。
 一方で、この時期、消費者保護の立場から、大正7年以降、次々と公設市場がつくられ、また大正10年には、生活協同組合の前身が設立された。さらに見逃せないのが、百貨店の登場である。関東大震災以後、百貨店の大衆化が進み、全国に売場面積が広がった。
 社会問題となっていた都市の零細小売業者の増加を解決するために、国によって考え出されたのが、百貨店を参考にした「商店街」である。専門性をもった零細商店を組織化したものであり、「横のデパート」を呼ばれたりした。
 その後、商店街は日本全国に広がり、大きな繁栄を見せることになる。さらに免許制や距離制限などが実施されることで、地域の消費空間が形成されるのだった。

 盤石の商店街がかげりを見せるのは、昭和58年の大店法の規制緩和をはじめ、免許取得の緩和、距離制限の撤廃など、商店街に関する規制の緩和が相次いで実施されてからである。郊外型ショッピングセンターの誕生などが商店街の凋落に拍車をかけた。その後の商店街のありようは誰もが知るところである。

 なるほど、商店街の誕生が、昭和に入ってから、国の政策によって生まれたことはこれで理解できた。では、サブタイトルについている「再生への道」とは、どんな方法なのか。興味津々に読み進めてみるが、どうもよくわからない。社会福祉政策を4分類し、その中で著者は「地域に対する規制」を取り入れることを薦めている。その規制は、業界の保護のためのものではなく、地域で暮らす人々の生活を支え、地域社会のつながりを保証するためのものだという。
 この論旨自体は私も賛成であるが、あまりに具体例が少ない。さらに言えば、もう少し世界に視野を広げて、国際比較において、日本の今後の地域社会における商店街の未来を示してほしかった。最後の章において、消化不良の感は免れない。




森林フォト.jpeg(田中淳夫著/平凡社新書)

森林からのニッポン再生

★★★★

日本の森林問題をトータルに考察。格好の刺激的書物

 森林について興味がむくむくと湧いてきたものの、ほとんど無知であった。知っていることといえば、小中学生の頃に習った、日本は約7割が森林に覆われた山国であること、それ以外は、豊かな森林が保水力を高めて洪水を防ぐこと、安い外材が入ってくるため、コストの高い国内材は売れないこと、林業の担い手が少なくなっていること、昔は六甲もはげ山だったこと、最近では間伐材を利用した木質ペレットが新しいエネルギーになるのではないかと期待されていること。せいぜいこの程度である。
 もっと基礎からトータルに森林を理解したいと考え、ネット検索した結果、選んだのが本書である。内容は幅広く、知的好奇心を刺激する部分が多過ぎるので、紹介するのも大変だ。いくつかランダムに紹介していきたい。

●森林率
 2001年(H14)のデータによると、日本の森林率(国土に占める森林面積の割合)は67%。これはほぼ教科書で教えられた通りであった。一番比率の高い国はフィンランド72%。日本は世界2位。ついでスエーデン66%、ブラジル64%、インドネシア58%、ロシア50%と続く。ちなみにカナダ27%、アメリカ25%、イギリス12%、中国16%。
 しかし日本は昔からこれほど森林率が高かったわけではない。循環型経済が発達していたといわれる江戸時代だが、森林に関してははげ山が多くて危機に瀕していた。写真は明治元年の六甲山の姿である。これは家の建築材料や燃料の薪として利用され尽くしたためだ。明治以降、石炭、石油、天然ガス等の代替エネルギーが現われたため、燃料としての需要が減り、人工林の造成によって、現在の森林率となったというわけだ。

明治元年の六甲山.jpg明治元年の六甲山の姿

森林は貯水能力があるのか?
 著者は否定的な事例を挙げていたが、結局は「ある」ようだ。母岩層にしろ表面の森林土壌にしろ、降雨量の多い日本では慢性的に満水に近い状態。だから、大雨の際に水を吸収させる余力は小さい。森林は、日常的な雨などに対する治山・治水機能は発揮する。しかし、集中豪雨や台風のような大規模な気象災害に対しては影響は極めて限定的だ。あまり過度な期待はしない方がいいらしい。

●住宅の平均寿命
 欧米の住宅は、石造りやレンガ造りのイメージが強いが、大半は木造。そして平均寿命は、イギリス141年、アメリカ103年、フランス86年、ドイツ79年に対して、日本はわずか26年。なんという差であろうか。原因には、風土の違いもある。高温多湿な風土ではカビやシロアリ被害が発生しやすいからだ。長く使おうと思えば、メンテナンスが欠かせない。

●林業の本質は、廃物利用
 千本桜で有名な吉野にある吉野林業では、主材だけでなく間伐材もちゃんと利用して商品化するなど木材をすべて使い切るノウハウを生かして収入を得ていた。
 例えば、主材は建築材や樽丸に、弓形の辺材は、経木、菓子箱、野菜箱、かまぼこ板,神器の三宝に、樽丸の小さな端材は割り箸に利用する。また、間伐材は足場丸太、稲穂の干架、薄い板、小角、柱材、磨き丸太に、スギ皮は屋根葺き材に、スギの葉は乾燥させて粉にしたものが線香の材料、残った木屑は燃料といった案配だ。

●日本の林業が衰退した理由
 価格、質、品揃え、供給、すべての面で劣っていたからと指摘する。
(1)価格/人件費や輸送コストの問題もあるが、一番大きな要因は、合理化できていない点にある。欧米には1台で伐採から枝落とし、玉切り、トラック積み込みまで行える高性能林業機械が普及。さらにGPSも搭載し、本部と無線で材価を聞いて相談しながら伐採量を決める。日本とは比べ物にならない合理化ときめの細かい経営により、低コストで利益が出る構造をつくり上げている。
(2)品質/国産材の中の乾燥材の割合は、いまだに2割程度。乾燥させないのは、戦後、木材と名がつけば飛ぶように売れた時代の名残かもしれない。
(3)品揃え/内装材への需要は高い。だが国産材は合板等への対応が遅れ、いまだに柱や梁など構造材ばかり製材している。
(4)安定供給/価格よりも大きな問題は、安定供給体制がとれてないこと。家1軒分の価格の中で木材価格の比率は大きな比重を占めていない。大手ハウスメーカーにとって、価格より材料の安定供給こそが絶対条件である。だが、国産材ではそれができない。

●新しい林業の可能性
 木材以外の利用があること。例えば、木材を燃やすことで作り出した熱で蒸気を作り出し、暖房のほか発電を行う熱電併給(=コジェネレーション)などがある。あるいは、バイオマス(有機物)を現代社会に利用できるエネルギー源にする可能性も。スエーデンでは、必要なエネルギーの約2割をバイオマスから得ている。

●林業は環境を守る最先端ビジネス
 石炭、石油の化石燃料は、CO2を出し、有限の資源であるのに対して、木材は再生可能な資源である。
 ドイツの人工林面積は、日本とほど同じだが、木材生産量は、日本の3倍。木材関連産業の売上13兆円であり、対GDP比は5%以上にもなる。その成功の要因として、機械化を進めたことで、低コストの施業を可能にしたこと、きめ細かな情報と市場ニーズを捉えて、消費者の満足度を高めためこと、木材を余すことなく使い切るシステムを作ったこと(=環境保全)の3点が挙げられる。

 こうして並べてみると、本書から得る収穫は実に大きい。著者が指摘する日本の林業が抱える問題点や、再生のための提案をきっかけに、自分なりにさらに調べてみようと思う。











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