プロフィール
産経新聞大阪本社 編集局 編集長
安本 寿久さん(高29期)
豊岡南中学校出身。昭和56年産経新聞社入社。大阪本社の社会部次長、サンケイエクスプレス編集長、編集局次長兼総合編集部長などを経て、平成20年産経新聞編集長。ラジオ大阪「NEWS TONIGHT いいおとな」アンカーマンも担当。
<安本さんの作品>
共著に『人口減少時代の読み方』『日露戦争ーその百年目の真実』『親と子の日本史』『坂の上の雲をゆく』(いずれも産経新聞出版)
新刊『評伝 廣瀬武夫』(扶桑社)が2010年12月2日より店頭に並ぶ。
会いたい人に会える、感動を人に伝えられる。
新聞記者の仕事は、面白い!
━━━安本さんが新聞記者を目指されたのは?
- 高校のときは、弁護士になりたかったんですよ。それで大学は法学部に進みましたが、1年くらいやって、法律の文章って面白くない。その頃から本に目覚めて大学にはほとんど行かず、本を読み出しました。一応4年間に1000冊読んでみようと思い、それを目標にやっていた。大学4年になったときに、就職の段階ではたと困りまして‥。本来なら公務員などになるのが普通ですが、そっちの勉強をほとんどしていない。じゃあ、何をしようかと。
━━━そこで再び、進路を真剣に考えたわけですね。
- 僕、仕事って、2つしかないと思った。ものを作るか、ものを売るか。売るというのは、やはり頭をさげないといけない。ものを作るのは、本当に自信のあるものだったら、威張っておれるというか、無用に人に頭を下げなくていいと思った。じゃあ、何がつくれるんだろうと思ったときに、文章だったら4年間本を一生懸命読んでいましたので、書けるんじゃないかと思ったもので、新聞社と出版社に絞って活動をした。それで3社か4社受けて、通ったのが2つだった。たまたま、こっちが気に入っていたので入りました。
━━━産経新聞社を気に入った理由は?
- 当時、近藤紘一さんという記者がいらっしゃった。『サイゴンから来た妻と娘』という本を書かれていて、ベトナムへ特派員で行ったときに現地の子連れの女性と知り合って結婚した。その本を大学3年生のときに読んで非常に感動しましてね。こんな人になりたいと思い、会社にはいるなら、ここと決めていたんですね。残念ながら僕が入ってから亡くなられたので、会えませんでした。
━━━新聞記者になって30年近く経ちますが、新聞記者の魅力は?
- どんな人でも希望すれば会える。それをまた人に伝えられる、感動したことを人に伝えられる。そういう意味では毎日勉強させてもらっていますし、精神的に老いることはない。身体的にはしんどいことはありますけどね。
━━━サンケイエクスプレスの編集長もやっておられた。
- 若い人たちに読んでもらおうと考えて、4年前にできた新聞です。すべて横書きで、オールカラーです。
━━━関西中心にお仕事をしておられたのですか?
- 32、33歳のときに東京のフジテレビに出向していました。そこで勉強させてもらったのは、新聞は作り手の論理で作ることが多いんですけど、テレビの場合はすぐに数字に表れますから、見てもらうため、聞いてもらうためにはどうしたらいいのか、というのをけっこう叩き込まれました。そのとき思ったのは、新聞は、マスコミは、サービス業なんだということですね。それまでは僕の就職観からすると、製造業だった。いい物をつくっておけば、いいでしょと。でもそこで初めてサービス業なんだと思いましたね。
━━━新聞記者をやって嬉しかったことは?
- 社会部の遊軍が多かった。遊軍記者は、記者クラブに所属せずに、大きな事件や事故が起きたときに応援に行ったりする。そういった緊急の仕事がないときは、連載物を書くんですね。時代を読み、自分で企画して書く。そこで読んでもらえると本になるわけです。共著の4冊は僕にとってはすべて宝物です。それは読者に受けて本にまでなるのですから。最近では、『人口減少時代の読み方』という本を出しました。2005年問題を扱ったものです。日本が人口減少になったときに、どんなことが起こるのか。そのときのためにこういう準備をしておかねばなりませんよ、ということを1年間、提言してきた。
『評伝 廣瀬武夫』を出版しました。
一人でも多くの人に読んでほしいですね。
━━━その他にも、明治ネタで2冊の本を書かれていますね。
- 『日露戦争ーその百年目の真実』『坂の上の雲をゆく』です。実は今回出版した『評伝 廣瀬武夫』も扶桑社が、今までの僕の仕事ぶりをみて、会社を通さずに直接依頼してきたものです。「12月からNHKテレビで『坂の上の雲』の第2部が始まります。廣瀬武夫という非常に重要な人物が出てきますが、今の人はほとんど知らないので、その人について書いてくれませんか」といってきた。だから今回初めて一人で書きました。
━━━『評伝 廣瀬武夫』は、どんな内容でしょうか?
- 廣瀬武夫は、昔は小学校の唱歌になっていたくらい有名な人です。非常に男気があって、そのうえ文化人で、国際人でもあった。軍隊の人ですけど、ロシアとも何とか仲介をして、和平交渉できないか、というような活動もしていた。ただ最後の死に方が、旅順港で、閉塞船といって、古い船を敵前まで持って行って、そこで沈めて帰ってくるという作戦に従事していた。それでロシアの太平洋艦隊を閉じこめてしまおうという危険きわまりない作戦なんですが、それを率先してやった。逃げ帰るときに部下が一人見えないものですから、沈み掛かっている船に3回も戻って捜索して、そのために戦死したという人なんですね。戦死の仕方が日本人の美の象徴だということで、戦前教育にずっと使われていた。軍神という名前でね。それが軍国教育の一端を担ったということで、昭和20年からは、こういう人については教えてはいけないということで、闇に葬られているわけです。
━━━その廣瀬武夫を再評価すべきだと‥。
- そうです。廣瀬武夫を再度、見直してみると、司馬さんが書いても不思議じゃない、いわゆるナイスガイなんですね。司馬遼太郎さんは、「漢」と書く男が好きなんですね。この言葉で表現できる人しか、主人公にしていない。今度の秋山真之、好古、正岡子規もこれに表される人です。廣瀬武夫は、『坂の上の雲』では、あまり触れられていない。真之の親友ということで何回か出てくるだけ。ただ、この人も35歳で亡くならずに長命していたら、間違いなく東郷平八郎級の指揮官になれる人だったと思う。真之は、いわゆる作戦家ですけど、この人は率先垂範する人で、部下の面倒見が良くて、豪放磊落な人だったので、指揮官にぴったりの人なんですね。ですから、35歳で戦死しなければ、きっと司馬さんの主人公になった人だと思います。そのあたりの人間的魅力をもう一度、きちんと見てくださいという気持ちで書きました。
━━━本を書くのに、とくに苦労された点は?
- 新聞は、省略の技術なんです。原稿用紙にしたら、一番長い原稿でも2枚半しか書けない。その中でどう表現するかを訓練するわけですね。この本は原稿用紙300枚くらいですけど、300枚書こうと思ったら、今までの技術では足りなくなってしまう。今後は、膨らませる技術というか、面白い部分を徹底に書く技術が必要だったので、そういう意味では、けっこう苦労しましたが、同時に楽しくもありましたね。
━━━編集長になってから、記者の時とは気持ち的に違いますか?
- 人が取材した原稿をその意図をくみ取って、できるだけいい記事に仕立てるのが編集者の役割なんですね。記者になりたい人は、本来、編集はやりたい仕事じゃない。自分で直接経験して表現したいというのが原点にありますから。だから僕の場合は、編集者の仕事もしますが、本も自分で書いたり、新聞のコラムなどもできるだけ書くようにしている。だから気持ち的には、生涯一記者ですね。
━━━インターネットの普及で新聞社は苦戦しています。新聞の将来については?
- ネットと新聞の両方をやらないといけない。ネットの方が早いし、普及力がありますので、産経はいまマイクロソフトと提携して、MSNにニュースを流している。そこで読んでもらって、読み足りない人は、しっかりと新聞で読んでもらう。だから、ニュースが入ってきたら、まずWebに流す。その後できっちりした形で新聞を作る。その両輪を会社としてやっています。業界全体としては、いくらネットの世界でも、そこに流れる物がなければ機能しません。新聞社は、必要で重要な産業だと思います。
豊岡の濃密な人間関係から飛び出したかった。
いまは、やはり懐かしい。
━━━ところで、どんな高校時代でしたか?
- 部活は棋道部に入っていました。中学時代は軟式野球をやっていたのですが、高校は硬式になりますので、あんな硬いボールは怖いなと。また、当時中学校は丸坊主でした。野球部に入ると、また丸坊主。どうしても髪を伸ばしたかったので、棋道部に入ったのです。でも面白くなかったので夏休みくらいでやめてしまって、後は、帰宅部でしたね。
━━━ではあまり面白くなかった?
- いいえ、高校時代に初めて勉強って楽しいなと思い始めた。それまでは勉強が嫌で嫌で仕方がなかったんですけど、棋道部をやめた頃から勉強をしてみると、まず英語の点が上がった。さらに2年生になって、社会が地理から政治経済と倫理社会に変わった。とくに政治経済が面白くて勉強をやりだしたら、100点近くいつも取れた。そうすると、「あ、勉強って面白いな」と思い、早く帰ったら勉強でもしようかという生活になった。だから楽しかったですよ。
━━━但馬や豊岡に対する想いは?
- いま豊岡に母親が一人で住んでいます。母親にとっては住み心地もいいところですし、人間関係が非常に濃密なので、動きたくないと言います。僕は、高校時代は、その濃密さが窮屈になったので飛び出したかった。飛び出してから見ると、やはり懐かしいところですね。実は、廣瀬武夫の故郷の竹田市も盆地なんです。そこには同じように濃密な人間関係がありますが、その中でしかできない人間の醸造方法があるんだなと最近感じだして、濃密なのもいいなと思っています。
━━━「無縁社会」が話題になっていますが、豊岡なら有縁だらけです。
- いま母親の行きつけの病院が一つありますが、そこの看護師長さんが、僕の同級生なんですよ。だから、「予約した日に来なかったら、ちょっと電話くれる?」とか頼んでいるんですね。だから倒れたりしていても、すぐにわかる。そういうことを気軽に頼めるし、やってくれるのは、本当にありがたいですね。
━━━達徳会についてはどう思いますか?
- 会社だとそろそろ定年も考えておこうかという年齢になると思いますが、達徳会に出ると、みんな大先輩ばかりですから、僕たちでも若い方になるでしょ。まだまだ嘴の黄色いひよっこだと。だから頑張らなくちゃと、やる気がでるんですよ。そういう意味ではいい会なんですよね。
━━━お忙しい中、貴重な時間を割いて興味深いお話を聞かせて頂き、ありがとうございました。
<インタビューアー/HP制作担当・竹内>