昔のモトコー of 波止場通信


■モトコーのコーナー誕生!

 波止場通信のオフィスは、元町高架下商店街(通称「モトコー」)の6丁目に当たる場所。毎日、頭上を走り抜ける電車の轟音を都市の鼓動のように聞きながら仕事をしています。そんな私に、プラネットEartHの宮崎さんから声がかかり、モトコーの販促誌のVol.11をお手伝いすることになりました。これを機に、改めてモトコーの魅力をディープに探って紹介することに決めました。

Vol.11.JPG

昔のモトコーを探して

〜ついでに、モトコーの歴史も紹介〜

昔のモトコー.JPG

貴重な写真と証言で綴る昔のモトコー

 モトコーの最新号Vol.11の裏面は、ご覧のように、数枚の写真をもとに、古いモトコーを知っていただこうという試みだ。
 ところが、まず写真がほとんどない。神戸市立中央図書館に行っても、旧二葉小学校にある神戸デジタルアーカイブを調べてもほとんどない。結局、プラネットEattHの宮崎さんが探し出した4枚の写真を証拠写真のようにして、写真について知っていることを聞き出そうとすると、今度は、知っている人がいない。やっと4人の方に話しを聞き出して、まとめてみた。(Vol.11は、モトコー2のプラネットEartHにあります)

戦後の闇市から誕生した商店街

 モトコーのコーナー誕生後の最初の記事でもあるので、これを機に、写真と証言と様々な資料類をもとに、高架下商店街の歴史をざっくりと紹介しておこう。

 神戸と大阪を結ぶ阪神間鉄道が開通したのが明治7(1889)年。そして昭和12年、国鉄元町~神戸間の高架が完成した。
 では、高架下はどうなっていたか。鉄道側は、倉庫として貸すことにし、山側から3分の2ほどのスペースが割り当てられた。そして浜側の空きスペースは通路として神戸市が利用できるように取り決められた。神戸市は通路の一部に児童遊園地を設置したこともあったが、あまり利用されなかったようだ。
 第2次世界大戦中は、神戸もたびたび空襲に見舞われ、高架下は罹災者たちが集まった。そして敗戦とともに、高架下には、みかん箱などが並べられ、闇市が始まった。すぐにバラックも建ち始めた。鉄道側は、本来通路であるべき場所を不法占拠されては困ると、立ち退きを神戸市に要請するが、すでに商売を始めている商店主たちは権利を主張して立ち退かない。そこで、鉄道側は神戸市と協議し、占有者である商店主と神戸市が賃貸契約を結び、神戸市が賃料を鉄道側におさめることに落ち着いた。
 それにしても個々に建つバラックが並ぶ景観はいかがなものか、ということで、昭和52(1977)年に大規模な改装工事が行われ、統一された店舗が立ち並ぶ商店街が誕生し、現在に至っている。

モトコーを彩る、賑わいの光と影

 このように敗戦後の闇市から誕生した高架下商店街だが、立地の良さと商品の品揃えの豊富さから、大いに賑わった。それは兵庫県警による闇市の取締が他地域に比べて緩やかであったという理由にもよる。
 「ここに来たら何でもあるからと、大阪から来てはりましたわ」と話すのは、喫茶「ホワイト」を経営する安原さん。戦争直後は食料品や中古衣類などがメインであったが、やがて日本経済が復興すると、神戸港に停泊中の外国船員が、中古の家電製品を求めにやってきた。中には自国の品物をもってきて買ってくれという船員もいたそうだ。「旧ソ連の船員さんが、入れ子細工みたいなマトリョーシカを持ってきて、買ってほしいと言ってきたり、手にはめていた時計を売りたいという船員もいました」(安原さん)。
 モトコーの賑わいに陰りが見え始めたのは、昭和50年代からである。海上輸送革命といわれるコンテナ船が昭和42年に導入された。その後、徐々にコンテナ船が主流を占めるようなってきてから、外国人船員の姿がめっきり減り始めた。それでも景気の良い間はまだまだ元気だった。本当の意味での打撃は、やはり阪神淡路大震災からである。神戸経済の停滞がじわりとモトコーにも忍び寄ってきた。

モトコーは不死身か?

 現在、シャッターが降りたままの店舗も多い。昼でも怪しい気配が漂っている場所もある。それでもモトコーは不死身である。次々に、マニアックな店舗、不思議な店舗、アートしている店舗など、他の商店街では見られない店舗が誕生している。高いオリジナル性を発揮している限り、磁石に吸い寄せられるように、好奇心旺盛な人々は、モトコーに足を運びたくなるに違いない。
(今後、モトコーの魅力をこの目で確認して、発信していくつもりです。乞うご期待!)


[お願い]
モトコーのルーツとでもいうべき、古い写真と証言者を探しています。ご存知の方がおられれば、波止場通信社までご一報ください。

Column


ページの先頭へ

編集人が運営する
3つのサイト