落語の世界

第1回 京橋精選落語会

談春の落語を聞きたくて足を運ぶ。
侍の真剣勝負の趣きあり!

■談春の高座を聞きたくて、前売チケット購入

 桂文珍がプロデュースする「京橋精選落語会」が2009年11月16日、大阪・京橋花月を舞台にスタートした。落語家の一門や東西の垣根を越えた企画で、春と秋の年2回開催予定。「ブランド力の高い落語会を作っていきたい。輝いている人に出ていただいて、落語の楽しさを共有したい」(文珍)というものだ。
 出演する落語家と演目は次の通り。月亭八光「ちりとてちん」、桂つく枝が、今年5月に、五代目を襲名した桂文三が「芋俵」、東京からは人気と実力を兼ね備えた立川談春 が「お楽しみ」、第1回繁昌亭大賞を受賞した中堅実力派の笑福亭三喬が「べかこ」、そしてトリをとる桂文珍が「らくだ」。
 今回の僕の狙いは、「今一番チケットの取れない落語家」ともいわれる立川談春 の落語。まだ聞いたことがなかったため、これは絶好の機会とばかり、この会のことが発表されて1週間後にチケットを予約した。きっと満席だろうと、半ば諦め気味で電話をしたら、まだ余裕で空いているとのこと。大阪の落語ファンは、まだ談春の評判をあまり知らないようだ。

談春の枕なしの噺は、侍の真剣勝負の風情あり

 その談春の話からしよう。驚いたのは、枕が一切なく、いきなり噺にはいっていったことだ。これは初体験だ。枕をふらないと言われている3代目桂春団治だって、「毎度ばかばかしいお笑いをば、一席させていただきます」の一言くらいはいう。それすらなく、いきなり入る。ドアを叩く合図もなく、いきなり家の中に入ってきた泥棒に会ったような驚きと戸惑いがある。談春にすれば、観客をいきなり噺の世界に連れて行く自信の現れなんだろう。真剣勝負を挑む侍のようでもある。
 この枕については、後ほど言及するとして、談春が語りだしたのは、後で調べると「夢金」だった。僕は初めて聞く噺だったので、随分と新鮮だったが、それ以上に新鮮だったのが、談春の語り口だ。本格的といえば、いいのか。夜の隅田川に雪が舞っている中、船を漕ぐときの情景描写はさすが。聞いているこちらにも、情景がありありと浮かんだものだ。笑いはない。これは、落語じゃないというか、いや、こういう落語もあってもいいのかと思ってしまう。
 志ん生が夢金をやったとしたら、強欲な熊三を、もっと戯画化するのではないかと思うが、談春の熊三は、等身大のリアルな姿に感じられた。東京で人気が高いのは分かるが、さて、つねに笑いに飢えている大阪人にとってはどうだろうか。それはともかく、僕は十分に談春の噺を堪能した。また、機会があればぜひとも聞いてみたい。

三喬のセンスに感心。枕も噺も面白い

 さて枕の噺である。僕は枕を聞くのが好きだ。枕は、お客の気持ちを暖めながら、噺に入っていくための潤滑油のような役目だと思うが、この枕こそ100%落語家が自由に語ることができる部分なので、噺家の落語や人間についての考え方や、時代を読み取るセンスなどを感じることができる。
 笑福亭三喬の枕は、実に面白い。どちらかといえば、とぼけた顔のままのポーカーフェイスでしゃべる。頭の回転がはやく、笑いのセンスを感じする。噺の「べかこ」もテンポがよく、小気味いい。上方落語はもっちゃりとして、粘り気の多い落語家が多い中では、珍しいタイプかも知れない。そしてしっかり笑いをとっている。これからも注目していきたい落語家の一人だ。


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雀三郎の会

 久々の生はやはりいいなあ

 「雀三郎の会」に最近知り合った人に誘われて行く。1年半ほど前に繁昌亭に行って以来、久しぶりの生高座だ。場所は精華小学校跡にできた精華小劇場。体育館や教室を改装してできたようだ。

●病院での三平の台詞は、ちょっとすごい

 この日のゲストは、林家正蔵。以前のこぶ平だ。雀三郎と正蔵の2人会のような形で進められた。正蔵の落語を初めて聞いた。枕で、大阪のおばちゃんに、松村邦宏に間違われたと言っていた。そのせいか、正蔵が落語をやっていても、ずっと松村が喋っているような不思議な気がした。それほど、顔、体型、声までもよく似ている。
 人情話「子別れ」と滑稽話(大店もの)の2つ。大真面目にやっているのは、分かるけど、なぜか感情移入できない。う〜ん、なぜだろう。松村が邪魔をするからなのか。分析するのは、後ほど。
 やはり枕で、親の三平の話をしていた。三平の話は、駄洒落をいい、それが受けなかったときのオーバーな表現を楽しむリアクション芸だと思うが、これってどうなんだろう。観客とのやりとりも、芸としては、邪道じゃなかろうか。しかし、一つ面白い話をしていた。危篤状態の三平に、医者が呼びかけた。「三平さん、本名を言えますか」。か細い声で三平は言った。「石原裕次郎」。これには、家族一同、笑っていいのか、泣いていいのか、分からなかったという。

●雀三郎は、落語王国の住人

 さて、雀三郎だ。いいねえ。風貌からして、落語王国の住人そのものだ。師匠の枝雀のオーバーアクションも採り入れながら、軽快なテンポで話を進めていく。「七度狐」「饅頭こわい」の話もいいし、枕も面白い。これから雀三郎を聞いていこうと思い、会場で二枚組(DVD+CD)3000円を購入して帰った。
 雀三郎の会なのに、こちらの記事が少なくて、申し訳ありません。

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死体も仲間

 落語は奥が深い。複雑怪奇な人間という存在をそのまま受け入れてしまう懐の深さがある。それは現代の、偽善的で、一元的な薄っぺらな時代とは明らかに違う骨太さなのだ。
 「人間って、そんなに立派なものじゃない。みんな、ちょぼちょぼよ。でもそんな人間って、愛しい存在だと思わないかい?」。そんな言葉が聞こえてきそうだ。立川談志はそれを「業の肯定」といい、志ん生にいわせれば、落語の登場人物のほ多くは「ついでに生きているような」連中なのだ。いいねえ、何とも肩の力が抜けていて。

 落語には死体を扱った場面が多い。現代のように、死を日常生活から排除することなく、生者のそばにある。例えば「らくだ」。なんと死体を背負って、かんかんのうを踊らせてしまう。あるいは、志ん生お得意の「黄金餅」。隣に住んでいた吝嗇家が、小判を入れた餅を飲み込み、喉につかえて死んでしまったのを壁の穴から見ていた男が、死体を焼き場で焼いた後に残った小判を頂こうと考える話。あるいは「算段の平兵衛」。誤って殺してしまい、死体処理に困った男が平兵衛のところに相談にくる。平兵衛は、この死体を利用して、逆にお金儲けをたくらみ、まんまと大金を懐にする。

 「黄金餅」は、何とも陰惨な話であり、死体損壊罪、「算段の平兵衛」なぞは、過失致死罪、詐欺罪などに問われる所だろう。これが落語になると、強欲な人間のことだから、こんなこともありか。さらにいえば平兵衛なんぞは、悪知恵に長けたピカレスクロマン(悪漢小説)の主人公になるから、何とも不思議なものだ。死体、あるは死者を扱った落語は、まだ他にもあるが、また、別の機会に。

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落語の国からのぞいてみれば

目からウロコの落語本。
江戸の暮らしを知るためのベーシック

江戸時代の気分をリアルに実感

 本書は、無料配布の「本」に、「落語の向こうのニッポン」というタイトルで連載されていたものをまとめたものだ。
 「本」で2回ほど読んで、見せ物小屋に代表される異界の世界のことや、独身の人間をとにかく結婚させようとする江戸時代の雰囲気がなんとなく分かった。杉浦日向子の江戸本でも読んだ気がするのだが、落語の登場人物を通して語らえると、江戸時代の気分が、リアルに分かったような気になるから不思議だ。これが落語の力というものかもしれない。
 さて、新書本を読んで、目から鱗状態になったのが、「数え年」「時刻の数え方」「月への関心」、この3つだ。

満年齢は個人主義的。数え年は社会優先の考え方

 いまは満年齢で数えるが、江戸時代は、数え年だった。だから極端なことを言えば、大晦日に生まれた子は、翌日の正月は2歳。無茶な気もするが、生まれた年で数えてしまう。
 それに対して、満年齢は、誕生日で年齢を刻むから極めて個人的になる。正直いって、家族の年齢を聞かれても、誕生日を勘案してから答えないと間違ってしまう。この方が正確なんだろけど、やっかいといえば、やっかいだ。還暦も、60年で暦がいっぱいなり、61年目に暦が還ることから、還暦という。だから本来は誕生日のことなんか関係ない。うーん、こういう例は他にも、いっぱいありそうだ。

季節によって時刻が違う数え方

 時刻の数え方。これが今の時代と一番違う感じがする。一言でいって、アバウト。しかも季節によって、時刻が違うという事実。
 昼は、夜が明ける明六ツ(午前6時)から数え始め、明五ツ(午前8時)、明四ツ(午前10時)、明九ツ(午後0時)、明八ツ(午後2時)、明七ツ(午後4時)夜は、暮れかる頃が、暮六ツ(午後6時)。そこから数え始め、暮五ツ(午後8時)、暮四ツ(午後10時)、暮九ツ(午前0時)、暮八ツ(午前2時)、暮七ツ(午前4時)。
 なんで1から3までの数字は使わないんだろ。それに、6、5、4と続き、次が9、8、7だからややこしい。括弧内の時間は、おおよその目処で、夏と冬では、時刻は違ってくる。

月を見上げながら暮らした江戸人

 しかしこんな大雑把な数え方で、時間の待ち合わせができたとのだろうかと、いらぬ心配をしてしまう。でも逆に、分刻みで動いている現代人からすれば、何と羨ましい気もする。ときどき、やけに明るい夜の帰り際に、ひょいと見上げれば満月、ということもあるが、普段は月を見あげることはほとんどない。しかし、江戸時代の人間は、毎晩見上げて、今日は三日月だから5日って考えたのかもしれない。日めくりもあっただろうから、両方を使っていたかもしれない。
 いずれにしても太陰暦の時代は、月に対して敏感になりながら暮らしていたことは容易に想像できる。もう一つは、その月も種類によって夜空に見える時間帯が違うことをこの本で再確認。う〜ん、理科か地学で学んだはずだが、みごとに忘れていた。今日からは、ときどき江戸人の気分で、空を見上げることにしよう。

落語の国からのぞいてみれば.jpg(堀井憲一郎著/講談社現代新書)

落語論

ストーリーに意味はない、ライブこそ落語の面白さ。に賛成したい

落ちなんかどうでもいい。面白ければいいんだ

 「そもそも、落語ってやつは?」について読もうという気になった。落語の発生と歴史などはいろいろな本にのっているが、この本が目指しているのは、落語の魅力の本質の解明だ。
 以前、読んだ本で、「最後に落ちがあるから落語なんだ」なんて一説を読んで、うっかり信じかけたことがあった。落ちの分析までのっていた。でも、落語をたくさん聞くと、落ちなんて、ここで終わりましたよという合図の意味しかないと気づいた。映画なら、画面に「THE END」と出るようなものだ。
 志ん生が、落語の枕で、「落語なんて小話がちょっと長くなっただけのもんだ」って言っていたけど、こっちの方が本当だと思う。要は、面白ければいいんだ。演者の話す世界に引き込まれ、一緒にその世界を楽しめばいいのだ。人情話を含めて、楽しめればいい。滑稽話、人情話、怪談話、なんでもいい。それほどに落語は間口が広い。
 といったようなことを考えていた私が、この本を読んだわけだ。

落語は、現場で体験すべき一回性のもの

 以前、筆者が、落語をDVDで楽しむのは避けた方がいいと、週刊文春で指摘していた。その意味が分かるような、でも真意はどうなんだろうと思っていた。その小さな疑問が、この本で解けた。
 落語は、現場で体験すべき一回性のもの。ライブこそ落語を楽しむ一番の方法なのだ、と主張している。確かにそうだろう。花火をDVDで観ても、絶対に感動しない。花火の魅力を堪能しようと思えば、その場の空間にいなければならない。それと同じようなものらしい。うまい例えだ。
 ストーリーに意味はない、という説も説得力がある。いろんな演者によって何度も繰り返し行われる。これが推理小説だったら、一度読んだらおしまい。でも落語は筋を知っていても、演者によって新しい発見があり、何度も楽しめる性質のものなのだ。そもそも古典落語は、完全な形はないし、演者によって変えられるものなのだ。だからこそライブでないと駄目というわけだ。

人物によって、声を分けなくてもいい

 この他にも、いくつか気づかされたことがあった。
 落語家は、観客の対応や雰囲気で、「ささいなことであっさり崩れる」という。そら、そうだろう。観客からのこころないヤジが飛んできたら、もう大変だろうね。それにいったんペースを崩したら、一人だから立ち直りにくいことも想像できる。志ん生のCDを聞いていたら、子どもがバタバタと会場内を走っている様子が録音されていた。きっとやりにくかっただろうね。小さいガキなんかを寄席に連れてきてはいけない。
 人物によって、声を分けなくてもいい。という説は、僕もそう思っていたから大賛成だ。これも志ん生の落語を聞いていると、声の調子はほとんど同じなのに、台詞でこれはどっちが発したのか分かるのだ。
 場面転換だって一切の説明なしで一気に切り替わる。その場面転換の鮮やかさに驚いたものだ。それにしても、志ん生から学ぶことが多いね。
 この本で少し残念だったのは、演者の風貌や雰囲気と、話との相性があると思うが、それには触れられていなかったことだ。僕はあると思うけどね。

落語論.jpg(堀井憲一郎著/講談社現代新書)