さすらいの女神たち
ニューバーレスクの一座が繰り広げる大人のロードムービー
★★★★
元町映画館で見た予告編で、これは面白そうだと直観。監督は、ジュリアン・シュナーベル監督の『潜水服は蝶の夢を見る』で主役を演じていたマチュー・アマルリック。もともとは監督らしいが、役者として売れっ子になってしまったらしい。そのアマルリックが脚本・監督・主役をこなした作品。予想通り面白く、甘っちょろい感傷なんか吹き飛ばすほどパワフルでスピーディな大人の映画だった。
かつてTVプロデューサーとして鳴らしたジョアキム(マチュー・アマルリック)だが、仕事で失敗をして、家族や仕事、友人たちすべてを捨てアメリカへ渡った。そして今度は再起を図るため、「ニューバーレスクショー」の一座を引き連れ、フランス巡業にやってきた。ルアーブル、ナントなどで行う連日の公演は大盛況を納めるが、肝心のパリ公演の会場が決まらない。単身パリに行き、かつての仲間や恋人に会って会場を探すが、うまくいかない。2人のこどもを連れて一座の元に帰ってくる。
昨年、クリステーナ・アギレラ主演の『バーレスク』が上映された。バーレスクとは、20世紀初頭にアメリカで流行したキャバレーショーのことだ。一時衰退したが、1990年代になってニューバーレスクとしてリバイバルした。この映画では、実際に活躍している本物のプロ達が出演している。どうりで様になっているわけだ。ダンサーたちの体型は、どちらかといえば太めが多い。下腹や二の腕のお肉も貫禄だ。エロティシズムに風刺とユーモアを交えた舞台が、大人の笑いを誘う。
地方巡業は何かと大変であり、彼女たちも様々な過去を経てきたわけだが、そんなことはお構いなしに陽気にパワフルに現在を生きている。パリで再起の足がかりにしようとした夢も消えたいま、ジョアキムは、一座の人間たちこそ素晴らしい家族であると気づくのだ。
セクシーで卑猥でアイロニカルでパワフルな舞台同様、話も素早いテンポで進んでいく。会話も矢継ぎ早に洒落と皮肉の効いた台詞が速射砲のように繰り出される。カメラもよく動く。視点を定める暇もない。カメラのブレが主人公の苛立ちの表現のようでもあり、拠点を定めず巡業に明け暮れる一座の運命のようにも思える。
『バーレスク』が一つの固定した場所で繰り広げられる人間模様を描いているのに対して、こちらは、人生の酸いも甘いも味わった大人達が繰り広げるグルービー感たっぷりのロードムービーなのだ。
2011年9月/フランス/監督:マチュー・アマルリック/出演:マチュー・アマルリック、ミランダ・コルクラシュア、スザンヌ・ラムジー、リンダ・マラシーニ/2010年カンヌ国際映画祭最優秀監督
ヒアアフター
死後の世界という難しいテーマを、抑制のきいた語り口で表現
★★★★
期待していたクリント・イーストウッド監督の最新作「ヒアアフター」の日本公開が2月19日始まった。ところが、3月11日に東日本大震災が発生し、14日には上映が中止。大津波のシーンが震災を連想させることや、震災の状況を配慮してのことらしい。残念ではあるが仕方がない。その作品がDVD化され、やっと見ることができた。
内容は、ざっと以下のようなものだ。
ジャーナリストのマリーは、東南アジアで津波に飲み込まれ、呼吸が停止した時に不思議な光景を見る。サンフランシスコ―かつて霊能力者として働いていたジョージ、今では工場に勤めている。ロンドンで暮らす少年マーカスは、突然の交通事故で双児の兄を失う。兄を思うマーカスは、霊能力者を捜すうち、ジョージのWebサイトに行き着く。一方、マリーは臨死体験を扱った本を書き上げた。死を垣間見た女、死者の声を聞く男、双子の兄を失った少年。やがてこの異なる3人の人生が交錯する日が来る…。
大切な人を亡くした喪失感や、人とつながることができない孤独感を抱えてきた3人が手を差し出せば握り返す人がいる幸せに気づいていくのだ。
生きとし生けるもの、誰しも一度は考えるのは「死」のことだろう。「死後はどうなるのか?」。誰も死後の世界を見たことはない。この素朴かつ難解な疑問に、答えようとする映画といえる。ちなみにヒアアフターとは、「来世」のことだ。
死後の世界についての思想は、単純化すれば3つしかない。死後の世界は、何もない。無だ。それが一つ目。主人公のマリーは恋人に問う。「死んだらどうなるの?」。恋人は答える。「電気を消えておしまい」「真っ暗闇だ。電気は点かない」「永遠の暗闇さ」。
2つ目は、死後の世界はある。キリスト教的世界観だ。
3つ目は、何度も生まれ変わるというもの。仏教的な世界観である。
この作品には、マリーが経験した臨死体験の話も出てくるし、霊能力者も出てくる。下手をするとSFかホラーのキワモノになってしまう。ところがそうならないのがイーストウッドの手腕だ。語り口も、音楽も、色彩もすべてに抑制がきいている。安易に来世に飛ばずに、知性と現実を大切にする、不可知論者としてのイーストウッドがいる。イーストウッド自身、臨死体験の存在も、肯定も否定もしないし、死後については分からないという立場を貫いている。彼が訴えたかったのは、誰もが直面する死について真剣に向き合うこと。そしていまある生を大切にして精一杯生きようではないか、ということのような気がする。
2011年2月/米国/監督:クリント・イーストウッド/出演:マット・デイモン、セシル・ド・フランス、フランキー・マクラレン、ジョージ・マクラレン
白いリボン
子供に純真無垢を強制する不条理。
ハネケ監督の精神構造に興味津々!
★★★★
1913年夏、北ドイツのある村。張られた針金が原因でドクターが落馬したのが発端だった。翌日にはその針金が消え、小作人の妻が男爵家の納屋で起きた事故で命を落とす。秋、収穫祭の日、母の死に納得できない息子が、男爵の畑のキャベツを切り刻む。その夜、男爵家の長男ジギが行方不明になった。一方、牧師は反抗的な自分の子供たちに“純心”の象徴である白いリボンを腕に巻かせる。犯人がわからないまま、不信感が村に広がっていく。
第62回カンヌ国際映画祭パルムドール大賞を受賞したミヒャエル・ハネケ監督の作品である。今回は、犯人探しの体裁を撮りながら、人間に潜む闇を暴き出していくのが、どうやらハネケ監督の目的のようだ。映画において犯人探しミステリーは観客の興味を惹きつけるための常套手段である。ただ、ハネケ監督が非凡なのは、犯人探しを目的の映画にしていないという点だ。
牧師が自分の子どもたちに、つねに純真無垢であるようにと「白いリボン」を腕に巻き付ける。嘘をついたといって鞭で叩かれる。さらに一人の男の子は、ベッドに縛られたまま寝る羽目になる。牧師にしてみれば、よかれと思っていている行為だが、子どもたちにとっては抑圧でしかない。しかし、この程度で、子供を犯罪に向かわせる動機になるのかね。だったら、親の牧師に復讐すればよいではないか。
それよりも、落馬して負傷したドクターの存在が興味深かった。最初は善良で子供思いで博識なドクターだと思っていたら、とんでもない闇を抱えており、自分の娘に近親相姦まがいのことをし、下半身を含めて身の回りの世話をしている隣の女を、「お前は、年寄りで不細工で飽き飽きしていたのだ。消えていってくれ!」と身も蓋もない本音を吐く。とんでもない奴だけど、分かりやすい存在である。
しかしハネケ監督は、どうして今のような世界観、人生観を抱くようになったのだろうか。どういう育ち方をしたのだろうか。自分では抱えきれないほどの抑圧を感じて生きてきたのだろうか。それは政治的な状況によるものなのか、家庭的な状況によるものなのか分からない。ハネケ監督の精神分析こそ、やってみたいと思う。
2010年12月公開/オーストリア、フランス、イタリア、ドイツ/監督:ミヒャエル・ハネケ/出演:クリスチャン・フリーデル、レオニー・ベネシュ、ほか/第62回カンヌ国際映画祭パルムドール大賞を受賞