映画の海

さらば友よ

不自然で、つっこみどころ満載。落胆した。

★★

 昔、それも大学生時代に感激して観た映画を、再度観てがっかりすることがある。「ガラスの墓標」がその類だった。今回の「さらば友よ」も、ガラスの墓標ほどではなかったが、少なからず落胆した。
 一番の原因は、ストーリーが荒唐無稽に思われたことだ。アルジェリア戦線での戦友の女ともだちの誘いで、金庫を開ける手伝いをすることになるが、「お金を盗むんじゃない。これを預けるの」と女は言う。それを真に受ける莫迦はいないだろう。また、金庫の隣が診療所で、ロッカーの背後の壁の穴から、金庫室が見えるなんて、それまたあり得ない。
 チャールズ・ブロンソンが、アラン・ドロンが作戦を実行中に現れて一緒に金庫を開ける仲間になる。これも都合良すぎるよね。
 診療室の助手の看護婦(彼女がガードマンを殺した犯人なのだが)の親父は大金持ちのはずなのに、なんで大金がいるのかね。
 会社の廊下が、夜中でも明るいのも変だし、金庫部屋に閉じこめられた2人が、新聞紙をもやすと、部屋全体がやけに明るくるなるのも変。
 アラン・ドロンと、金庫室に一緒にいたことを自白しないブロンソンに対して、「おれは仲間をうらないお前が好きだ」という刑事の台詞があるが、普通、そんなことは言わないだろう。

 とにかく不自然なシーンが多すぎて、つっこみどころ満載なのだが、2つの名シーンに免じて許してあげよう。有名な、水を満たしたコップにコインを入れて、こぼれないかどうかを賭けるシーン、そして最後、煙草をくわえたブロンソンに、アラン・ドロンが、マッチで火を付けて別れるシーンだ。
 2度目にみると、これも感動するわけにはいかないが、よしとするか。

さらに友よ.jpg1968年公開/フランス、イタリア/ジャン・エルマン監督/出演:アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン

禁じられた抱擁

カトリーヌ・スパークの代表作。
身体をお金で被うシーンはあまりに有名。

★★★

 大学生の頃、当時の映画雑誌「スクリーン」か「映画の友」のどちらか忘れてしまったが、印象的なシーンの写真が掲載されていた。それはベッドに横たわっているカトリーヌ・スパークの全裸がリラ紙幣で被われているものだった。アルベルト・モラビア原作のタイトルは「倦怠」だが、邦画では「禁じられた抱擁」へと変わる。配給会社もいろいろと考えるものだ。

 ある若くて奔放な娘セシリア(カトリーヌ・スパーク)に振りまわされる金持ちの青年ディノ(ホルスト・ブッフホルツ)の話なのだが、セシリアがなかなか魅力的に描かれている。ディノの向かいに住んでいる老画家も、モデルをしていたセシリアの魅力にはまり、死期を早めたのだった。
 彼女は、自分の気持ちに正直に行動するタイプで、性的にも奔放。複数の男性と付き合うことも何とも思っておらず、一般的な道徳、倫理観では当てはまらない女性だ。
 彼女を豪華な自分の家に連れて行き、結婚すればここに住めるし、お金を自由に使えるからと迫る。「君の身体を覆いつくすだけのお金をあげるから」と、リラ紙幣を身体の上に載せていく。これが冒頭に紹介した有名なシーンだ。しかし、彼女は結婚を拒否し、他の恋人とカプリ島に旅行に出かけてしまう。
 お金にもまったく縛られないセシリアの魅力には、ディノに限らず、スクリーンを見つめた多くの男性が参ったに違いない。

 それにしても、当時のリラ紙幣の大きさには驚いた。当然財布に入るはずもなく、丸めてポケットにねじ込んでいた。

禁じられた抱擁.jpg1963年/イタリア、アメリカ/監督:ダミアーノ・タミアーニ/出演:カトリーヌ・スパーク、ホルスト・ブッフホルツ、ベティ・デイビス

ティファニーで朝食を

主人公のコケティッシュな魅力と、最新ファッションを楽しもう!

★★★

 恥ずかしながら原作を読んでいなかったために、タイトルの意味が分からなかった。宝石店で有名なティファーに、レストラン、あったっけ?
 これは主人公(オードリー・ヘプバーン)がティファニーの店の前で、宝石をみながらパンをほおばるのが好きだというオチだった。

 さて主人公は、田舎に暮らす夫と子どもたちを棄てて、ニューヨークで金持ちとの結婚を夢見る女、ホリー・ゴライトリー。しかもニューヨークでの贅沢で優雅な生活は、コールガールとしての稼ぎによって成立していた。普通なら嫌な女だよ、これは。だから、こうしたハンデを上回る魅力が主人公になければ、共感と賞賛を得ることはできない。
 果たして、彼女は最新ファッションに身をつつみ、いつも現実離れをした、素っ頓狂なことをいう。そして男を煙に巻く。そして男を振り回す。そんなファンーでコケティティシュな女を、男は追いかけるのだった。
 しかし、ローマの休日のお姫様役をやったオードリー・ヘプバーンは、コールガールには見えない。抱けば折れてしまいそうなくらい細くてか細い。そして何をやっても上品に見えてしまうから、この起用は成功なのか。
 最新ファッションは、今見ても新鮮だが、個人的に一番気になったのは、とてつもなく長いキセルだ。この映画以外に、キセルを小道具としてうまく使った映画があったら、教えてほしい。

ティファニーで朝食を.jpg1961年/アメリカ/監督:ブレイク・エドワーズ/出演:オードリー・ヘップバーン、ジョージ・ペパード、パトリシア・ニール

勝手にしやがれ

愛について饒舌な、ハードボイルドマニア

★★★★

 ジャン・リュック・ゴダールの代表作であり、ヌーベルバーグの代表作としてあまりにも有名な作品を見始めてすぐに気づくのは、画面の白っぽさと、話がコミック雑誌を読んでいるようにテンポよく飛んでいくことだ。従来のヨーロッパ映画に見られる、長回しでじっくりと人物描写を重ねていく手法とは、明らかに違う。画面だって、ヨーロッパ映画は一般的に暗く、濃密な映像が支配的であることを考えれば、当時としてはそれだけでも画期的だっただろう。
 自動車泥棒のジャンポール・ベルモンドが、ハンフリー・ボガードのポスターをみながら唇を指でなぞるシーンがある。その後もたびたびそのシーンが挿入される。つまり主人公はボギーように、ハードボイルドに生きたいと願っている、フランスのチンピラの兄ちゃんである。
 警察官をピストルで撃って死なせしてしまい、逃走するが、主人公の表情と行動からは、恐怖感も切迫感もみじんも見られない。金をせしめ、車を盗み、好きな女の子をくどいている。暗黒映画はフランスの得意なジャンルである。ジャン・ギャバンが登場するフィルム・ノワールの伝統がある。この伝統とも一線を画するものである。
でもこの映画は紛れもなくフランス映画である。主人公と恋人が愛について語りあうシーンがふんだんに盛り込まれている。それにしてもフランス人は、みんな愛の哲学者なのかね。ましてチンピラやくざが、こんなに愛について語り続けるかね。アメリカ映画の「愛の狩人」の中で交わされるセリフの単純さと比較すれば、きっと驚くだろう。

 ところでジーン・セバーグである。この映画で一躍、世界的に有名になった女優である。ショートヘアが見事に決まっている彼女の髪型が、セシールカットとして全世界に流行した女優である。美人である。キュートである。でもときどきアングルによって、とても平凡に映るときがある。
ゴダールは、このジーン・セバーグやブリジット・バルドーなどを映画に起用しているが、主人公は彼女たちから愛されている確証をもてない。ゴダール自身、きっと人生についても愛についても懐疑的な人間だったのだろう。

勝手にしやがれ.jpg1960年/フランス/監督:ジャン・リュック・ゴダール/出演:ジャン・ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ

刑事

カルディナーレの美しさと哀愁を帯びた主題歌だけでも観る価値あり

★★★★

 見逃していた有名作品の一つ「刑事」を観た。観たことがなくても、♪アモーレ・アモーレ・アモレミーオで始まる主題歌と、逮捕された夫を乗せた刑事の車を妻のクラウディア・カルディーレが裸足で必死に追いかけるラストシーンは、あまりにも有名だ。
 作品が始まるといきなり主題歌が始まる。これで掴みはOKだ。ローマのアパートにする裕福なバンドゥッチ夫人のリリアーナが殺された。犯人を追う機動隊警部カーロ(ピエトロ・ジェルミ)が犯人を追う。クラウディア・カルディーレが演じるのは、バンドゥッチ家の女中である。
 犯人探しは二転三転するが、こちらの関心は、日本のアパートとは比べモノにならない豪華なローマのアパートの様子や、刑事役のピエトロ・ジェルミの強面の顔なのに甲高くて早口で甘い声、クラウディア・カルディーレの美貌などにいってしまう。そして最後の名シーンになるわけで、観どころ聴きどころ満載の良くできた作品である。
 ちなみに刑事の主題歌を作曲したカルロ・ルスティケリは、他にも「鉄道員」「誘惑されて棄てられて」「ブーベの恋人」などがある。いずれも過剰なまでに哀愁を帯びたメロディが特徴で、日本人のセンチメントにぴたりと合致する。ニーノ・ロータ、エンリオ・モリコーネと合わせて、イタリア映画の3大作曲家である。50年代、60年代はイタリア映画が名作を連発したいい時代だったとつくづく思う。

刑事.jpg1959年/イタリア/監督:ピエトロ・ジェルミ/音楽:カルロ・ルスティケリ/出演:ピエトロ・ジェルミ、クラウディア・カルディーレ

渚にて

人類の滅亡をサイレント映画のように描く傑作

★★★★

 人類滅亡物として、あまりに有名な作品を、やっと観る。いろいろな原因による破滅があるが、これは核戦争よる放射能汚染による人類死滅の話である。

 1964年、第三次世界大戦が勃発。 核爆弾による戦闘で地球上は放射能に汚染されてしまい、北半球は壊滅状態となる。 死の灰が近づきつつあった南半球オーストラリアのメルボルンに1隻の原子力潜水艦が入港。 潜水艦の船長タワーズ(グレゴリー・ペック)はメルボルンで迫り来る死を待つか、人類が絶滅した祖国アメリカに戻るかの決断を迫られる。 そんな時、放射能で死滅したはずのサンディエゴの町からモールス信号を受信。調査のため、原子力潜水艦はサンフランシスコに向かう。

 サンディエゴの町からのモールス信号の正体は、意外なものだった。これはタネ明かしになるので、観てのお楽しみしておきたい。
 全体の印象としては、戦争による人類滅亡物でありながら、戦争シーンは一切なく、また破滅が近づいているにも係わらず、阿鼻叫喚、パニックなども一切なく、「なぜ戦争を始めてしまったのか」という深い絶望と諦念と悔恨に彩られたサイレント映画のように静かな作品である。
 北半球における人類の滅亡を、無人のサンフランシスコの街、サンディエゴの街の風景で示し、そして最後に生き残っていたメルボルン市民たちも、やがて安楽死のためのクスリを求めて長い列をつくる。そしてやがて街頭には誰もいなくなり、「兄弟たちよ、まだ時間はある」と書かれた横断幕だけが風に揺れていた。人類の愚かしさを噛み締めるには良い作品だと思うし、好きな作品だ。

 ちなみにこの作品で、踊らないフレッド・アステアを初めて観た。とても上手い。当時も彼の演技は絶賛されたらしい。

渚にて.jpg1959年/アメリカ/監督:スタンリー・クレーマー/主演:グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、フレッド・アステア、アンソニー・パーキンス

サヨナラ

1950年代の日本の風俗を知ることが出来るハリウッド映画

★★★★

 日本人で初のアカデミー賞(助演女優賞)を受賞したナンシー梅木が出演している映画ということで、以前から気になっていた映画だ。
 朝鮮戦争当時の米軍パイロット、グルーバー少佐(マーロン・ブランド)とマツバヤシ(松林)歌劇団のトップスター、ハナオギ(高美以子)との恋を描いた作品。
 ハリウッドの「間違いだらけの日本」の描き方には、笑うほかしかないが、この映画はどうだろうか。
 マツバヤシ歌劇団の団員たちが、大きなお寺に住み、畳の上でダンスの練習をしたり、団員達は必ず歌いながら屋根付きの橋を渡ったりする点などが気になるが、これらを除けば、日本家屋での暮らし方などを含めて、比較的正確に日本を描いているように思う。
 さて、将軍の娘とつきあっていたグルーバー少佐だが、結婚に踏み切れない。そんなときハナオギを知って一目惚れをしてしまい、2人はつきあう。ハナオギも少佐と結婚をしたいが、経済面でも恩義を受けたマツバヤシ歌劇団を裏切ることはできない。個人の自由な意志を貫くことが当然のアメリカと、義理が重たい日本の世界。日米の生き方の価値観を問う場面でもある。
 さてさて、ナンシー梅木である。少佐の部下であるアメリカ兵と結婚した日本人女性役を演じている。決して美人じゃないが、これぞ、かつての奥ゆかしく、恥じらいの美学をもつ日本女性を見事に演じて美しい。この映画を観て、日本人女性と結婚したい思ったアメリカ男性は多かったに違いない。
 日本だって、今時、こんな女性を探すのは、きっと不可能だろう。

サヨナラ.jpg1957年/アメリカ/監督:ジョシュア・ローガン/出演:マーロン・ブランド、高美以子、ナンシー・梅木、レッド・バトンズ

戦場にかける橋

イギリス軍将校の誇りを示したアレック・ギネスがいい味!

★★★★

 これも見逃した名作の1本で、巨匠デビット・リーンの作品。マレーシア旅行に関連して、このさい、見ることにした。
 第二次世界大戦において、日本軍がインドシナ半島を支配するためには、鉄道網の整備は不可欠で、タイ、ビルマの国境近くを走る泰緬鉄道もその一つである。映画は、クワイ川にかける鉄橋建設工事を巡って連合軍の捕虜と日本人大佐との対立と交流を描いたものだ。
 しかしさすがにデビット・リーンだ。リアリティを出すために、現地ロケを中心に撮影。ジャングルを逃げるシーン、橋を爆破するためにジャングルをかき分けて進むシーンはすごい。橋にかける鉄橋もまた、本物にしか見えないリアルさだ。鉄橋の建設を急ぐ日本人大佐の早川雪舟と、軍人としての誇りを守るイギリス人将校、アレック・ギネスとの命をかけた人間としての闘いもスリリングで面白い。
 この映画は、1957年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演男優賞など総なめにしている。早川雪舟は助演男優賞にノミネートされたが、受賞を逃している。ちなみに同年の助演女優賞は、「サヨナラ」に出演したナンシー梅木だ。
 それにしても、戦前にハリウッドでチャップリンと人気を二分したと言われる早川雪舟の生涯を探ると、実に興味深い。これはまたの機会に。

戦場にかける橋.jpg1957年/イギリス、アメリカ/監督:デヴィッド・リーン/出演:アレック・ギネス、ウイリアム・ホールデン、早川雪州

海底2万マイル

アドベンチャーSF映画の古典。できれば少年時代に見たかった

★★★

 恥ずかしながら、この有名なSF小説を読んだことがない。しかし、あがた森魚氏がコンサートで「少年時代に一番、影響を受けた映画なんです」の一言でまず映画(1954年。ディズニー)を見ることにした。
 映像に関しては、特殊効果にしても、当時としてはかなりのレベルではなかろうか。巨大タコとの戦いなどは、本物のように良くできていたと思う。
 ストーリーに関しては、主人公の銛打ちのネッド(カーク・ダグラス)や大学教授よりも、悪役のネモ船長の方に断然、共感を覚える。天才科学者が、いまの原子力エネルギーみたいなものを発明して、巨大潜水艦ノーチラス号を建造し、地上における戦争の道具となるようなものを運ぶ船を破壊してしまうのだ。
 地上は暴力と悪が支配する世界であり、海底にこそ理想郷があるという着想も面白い。原作者・ジュール・ヴェルヌは、平和主義者であり、被圧迫民族への擁護者でもあったようだ。ヴェルヌの思想も遺憾なくこの映画には織り込まれている。あがた森魚氏のように、少年時代に観たら、ものすごく感激にしたに違いない。

ヴェルヌが生まれたナントは、異国情緒豊かな港町で、これが冒険心と想像力をかきたてた。また、エドガー・アラン・ポーがお気に入りの作家で、彼に影響されて、科学的事実を素材に取り入れた小説を書くようになったそうだ。

 「海底2万マイル」の原作が誕生したのが1870年。明治2年のことだ。この時代に、すでに現代の原子力潜水艦らしきものの出現を予言し、いまなおテロや地域紛争が止まない現代の有り様を考えると、ヴェルヌはいまなお新しい作家だといえよう。

海底2万マイル.jpg1954年/アメリカ/監督:チチャード・フライシャー/出演:カーク・ダグラス、ジェームス・メイソン、ポール・ルーカス

波止場

マーロン・ブランドの演技が光る
セミ・ドキュメンタリータッチの名作

★★★★

 テリー(マーロン・ブランド)は元ボクサーだが、今は波止場で荷役をする日雇い労働者であった。テリーはある日、地元のギャングであるジョニー(リー・J・コップ)の命令で、 古い友人ジョイを呼び出し、結果的に殺害に関与してしまう。波止場を牛耳るジョニーが邪魔な存在を 次々と殺していくことに皆怯え、テリーも逆らえずにいた。しかし悪と戦う勇気を訴える神父や友人の妹イディ(エヴァ・マリー・セイント)に影響をうけ、テリーは信念に基づき生きることに目覚めていく。
 ニューヨーの港を舞台に、マフィアのボスに立ち向かうある港湾労働者の姿を描くエリア・カザン監督による名作。

 この映画の名シーンと言われているのが、兄のチャーリー(ロッド・スタイガー)と弟のテリー(ブランド)とのタクシーの中での会話のシーンだ。微妙な立場にある2人の関係を見事に演じたと絶賛された。このシーンの演技は、監督のエリア・カザンが2人の即興に任せ、一切演技の指示をしなかった。また、テリーがイディと歩く場面で、偶然落とした手袋をブランドはさりげなく広いあげ、自分の手にはめるシーンがあるが、これもブランドの即興によるものらしい。
 マーロン・ブランド、ロッド・スタイガーともに、カザンたちが作った有名なアクターズ・スタジオ出身だが、ここでは即興の演技を重視する「スタニスラフスキーシステム」(懐かしい言葉だ)を採用していた。だからこうした即興による名演技も生まれたのだった。

 名演技もさることながら、この作品の魅力は、実際の取材に基づいて書かれたシナリオにある。カザン監督自身、アーサー・ミラーと組んで波止場を舞台にした作品を早くから撮りたかったが、政治的圧力でつぶされたらしい。キャ本家のバッド・シュールバーグは、現場に泊まり込んで取材にあたったらしい。実際、当時の波止場にはマフィアや暴力団が資金源としていた話がごろごろしていた。だから、この映画に独特のセミドキュメンタリー的な味わいを感じたとしても当然かもしれない。

映画 波止場.jpg1954年/アメリカ/監督:エリア・カザン/出演:マーロン・ブランド、エヴァ・マリー・セイント、ロッド・スタイガー、リー・J・コップ 1954年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、助演女優賞など8部門に輝く

セールスマンの死

競争社会の中で苦悩する親子の断絶を描く名作。
だが、映画としては不満も残る。

★★★

 ご存知、原作は、ピューリッツアー賞を受賞したアーサー・ミラーの代表作である。舞台で何度も上演して好評を博し、映画でも2度製作されている。
 あまりに有名な作品だが、私は恥ずかしながら、この戯曲を読んだこともなければ、映画を観るのも初めてである。人生に恥ずかしいことはいっぱいある。

 観る前にある予断をもっていた。出世競争に明け暮れるアメリカ社会で負けたセールスマンの自殺。過剰な競争を強いる米国文明批判、といったものだった。

 実際に見ていると、確かにこうした側面もあるが、それ以上に父と子どもの葛藤劇の面が強かった。高校時代、アメフトの花形選手で、有名大学への入学が期待されていたローマン家の長男・ビフを、父親・ウィリィは自慢でならなかった。一方、息子も、バリバリと働く父親を尊敬していた。だが、父子の歯車は、数学の点が悪くて有名大学への進学が危ぶまれたビフは、父親に相談するために出張先の町へ行く。そこで偶然、父親が浮気をしていたことを知ったことから大きく狂い出す。

 いまは、父親は最盛期を過ぎた63歳だが、住宅ローンが残っているため、まだ働かざるを得ない。自らの力の衰えを認めたくない彼は、昔のよき時代を思い出しながら、自らを奮い立たせるのだった。
 現在36歳長男は大学に進学せずに働くが、どこも長続きしない。次男は女たらしである。展望の開けないローマン家の人々が、諍いをおこしながら、話は展開していく。

 確かにシナリオは良くできているが、映画として気に掛かって仕方なかったことが2点ほどある。
 一つは、出演者たちが舞台で話すように、大声で怒鳴るように喋るのだ。とくに父親役の声は、つねに隣まで届くような大声であり、不自然に感じた。舞台ならいいが、映画では不必要だろう。
 もう一点が、やはり父親が、よく過去のことを振り返る場面がフラッシュバックの手法で導入される。認知症かアルツハイマーかわらかないが、呆けているようにしか見えないのだ。

 結局、会社を簡単に首になり、息子の再就職も駄目になったことを知ったウィリィだが、息子の愛を確認した。そして今の状況を打開するため、彼は死亡保険金を得るために自殺する道を選んだのだった。
 ローマン家のような家庭は、今でもアメリカでは多く、問題はなんら解決されていない。弱肉強食を是とするアメリカ社会の抱える問題の根は深い。

セールスマンの死.jpg1952年公開/アメリカ/監督:ラズロ・ベネディク/出演:フレデリック・マーチ、ミルドレッド・ダンノック、ケヴィン・マッカーシー

欲望という名の電車

零落し、精神を病んでいく女性の悲しさを、ヴィヴィアン・リーが見事に演じる

★★★★

 1947〜48年にかけて、ブロードウェイで大ヒットとなったT・ウィリアムズの舞台劇をエリア・カザンが映画化。

 港湾都市ニューオリンズのうらぶれた下町に、Desire(欲望通り行き)と表示された路面電車に乗って、孤独な未亡人ブランチ・デュボワ(ヴィヴィアン・リー)が降り立った。南部の町オリオールの傾きかけた名家に育ったブランチは、家族の看護やその葬儀などで財産を使い果たし、妹夫婦を頼って来たのだ。だが、妹ステラ(キム・ハンター)の夫スタンリー(マーロン・ブランド)は貧しい職工で、家もたった二間のアパートだった。

 例によって演劇の映画化作品だから、やたらと台詞が多い。ブランチが夢のような嘘を並べ立てる。スタンレーが「うるさい。お前は嘘つきだ」といってどやしつける。そんなやりとりが繰り返されながら、物語は展開していく。
 ヴィヴィアン・リーが、裕福で夢見がちな少女時代を過ごした女性が零落し、精神を病んでいる様を見事に演じている。壊れ物として人間、落ちていく女の悲しみが伝わってくる。ブランチはいう。「現実は嫌いよ。魔法の世界がいい」。彼女の逃げ場所は、夢の中にしかなかったのだ。
 一方、庶民階級で、現実主義者のスタンレーを演じたマーロン・ブランドの肉体が、ギリシャのオリンピック競技者のように輝いていた。この映画をきっかけに、それまで下着だったTシャツが、アウトウエアとしても着られるようなったそうだ。

欲望という名の電車.jpg1951年制作、1952年日本公開/米国/監督:エリア・カザン/出演:ヴィヴィアン・リー、マーロン・ブランド、キム・ハンター、カール・ノルデン。 アカデミー賞主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、美術賞

霧の波止場

霧の港町を舞台に展開。海辺に佇む酒場が印象的!

★★★★

 タイトルに“波止場”の文字の入った作品を観ようと探して見つけたのが、この作品「霧の波止場」である。「天井桟敷」で有名なマルセル・カルネ監督の作品だ。
 舞台は港町のル・アーブル。調べると北西部にあり、マルセイユに次いで大きな港町だ。そのル・アーブルが霧に覆われているため、幻想的で神秘的な雰囲気を醸し出している。主人公のジャン(ジャン・ギャバン)は、外人部隊の脱走兵だ。台詞から植民地であるベトナムでの戦闘に嫌気がさして脱走したことが分かる。
 ジャンは、海岸沿いの不思議な酒場でネリー(ミシェル・モルガン)と知り合う。彼女は名付け親のザベル(ミシェル・シモン)にしつこくつきまとわれて困っていた。波止場の小屋にしけ込んだジャン。生きることに嫌気のさしていた仲間の画家ミシェルは彼にパスポートを残して自殺する。お蔭でベネズエラ行きの手はずをととのえた。
 その後、話の展開は、かなり急テンポで進んでいく。最後は見てのお楽しみである。結果的にジャンは船に乗ることはできなかったとだと伝えておこう。

 見終わって感じたのは、ジャン・ギャバンの代表作「望郷」との相似である。舞台は港町であり(望郷は、アルジェリアの首都・アルジェ)、2人とも追われる身でありながら(望郷のペペ・ル・モコは、ギャングのボスとして警察に追われている)、女にも男にももてる、そして恋をした女性と船に乗って逃亡を企てようとするが、ともに失敗に帰す。
 別に望郷が下敷きになっているわけではないが、映画がヒットする要素(港・女・逃亡・船)は似ているような気がする。

 恋人役のミシェル・モルガンは、一度見たら忘れられない強烈な印象を残す女優だ。目が大きく、何よりも人を射すくめるヒョウのような目力がある。ベレー帽とトレンチコートという彼女の出で立ちは、上映後、フランスで大いに流行ったらしい。
 印象に残るのは、女優だけでなく、シーンの一つひとつがクッキリと浮かび上がってくる。カルネ監督の手腕という他ない。

霧の波止場.jpg1949年/フランス/監督:マルセル・カルネ/脚本:ジャック・プレベール/出演:ジャン・ギャバン、ミシェル・モルガン、ミシェル・シモン

美女と野獣

野獣の館の何と幻想的なことか。コクトーらしい演出を楽しむ。

★★★★

 昔、年老いた商人がいた。末娘のベルは美しく優しい娘で、いつも意地悪の二人の姉にいじめられていた。彼女は腕白な兄の友達アヴナンから求婚されていたが、父の世話をするために拒んでいた。父は自分の船が沈んだので破産を覚悟していたが、その一せきが無事入港したと聞いて喜んだ。二人の姉は宝石や衣装を土産にねだったが、ベルは唯バラの花が欲しいといった。父が港に着いてみると船は債権者に押収されてしまい止むなく夜道を馬に乗って帰って来る途中、何時の間にか道を踏み迷ってこれまで見たことも聞いたこともない荒れ果てた古城に行き当った。

 ご存知、ジャン・コクトー監督の代表作「美女と野獣」の冒頭部分である。この館の庭でベルのためにバラを摘んだために、野獣の怒りを買い、親の身代わりに人質になったベルと野獣は一緒に暮らすことになった。
 ボーモン婦人の原作にほぼ忠実なストーリー展開だが、そこはコクトーである。随所にコクトーらしい素晴らしい演出を施している。
 最初にコクトー自身の後ろ姿が映り、黒板に出演者の名前を手書きするシーンなども洒落ている。
 そしえ魔法が懸けられている野獣の館は、コクトーマジックを発揮するための絶好の舞台。館の壁面にならぶ燭台をもつ手の彫像が本物の手であったり、石像も顔や目が自由に動いたりする。時々、煙を吐き出す人面暖炉もあり、建物全体がグロテスクと美しさが混在した幻想的な空間となっている。
 アヴナンと野獣の二役をこなしているジャン・マレーも実に若い! そして野性味に溢れている。ベル役のジョゼット・デイも確かに美しい。彼女が美しくなければこの映画は成立しないのだから。

美女と野獣.jpg1946年/フランス/監督:ジャン・コクトー/出演:ジャン・マレー、ジョゼット・デイ

望郷

迷路のようなカスバと、ジャン・ギャバンで決まり!

★★★★

 原題は、「ぺぺ・ル・モコ」。主人公であるギャングの名前である。ところが邦題は「望郷」。やけにセンチメンタルなタイトルだと思っていたが、映画を見終わるとこの邦題も悪くない、と納得した。

 名作と言われるだけあって、観た者に強烈な印象を残す映画である。フランス領アルジェリアのカスバの巨大な迷路、様々な人種が混じり合う様子、酒場や宿屋、路地などでうずまく喧噪の雰囲気などが、この映画を通じてよく分かる(モノクロのため、不衛生さとかニオイなどが伝わりにくい点が少し残念だが‥)。主役のひとつは紛れもなく、このカスバである。

 そしてもう一人の主役がジャン・ギャバンだ。強盗三十件、銀行襲撃二件という犯罪歴をもつお尋ね者のギャングなのだが、気前が良く、面倒見が良くて住民からは慕われている役どころが、ピタリとはまっている。二枚目じゃないけど、渋くて誰もが惚れるような味がある。
 現地の女イネスと暮らすペペだが、豪華な衣裳と宝石を身にまとったパリの女ガビィに一目惚れをする。富豪の情婦人ガビィもペペに惹かれる。ペペが言う。「お前には、パリのメトロの匂いがする」。この台詞を確か2、3度呟いたように思う。メトロと女。う〜ん、どうもイメージが結びつかない。
 いずれにしても逮捕覚悟で、イネスとカスバの世界から、ガビィとパリの世界へ戻ろうとしたペペ。それに対して、カスバと自分の所に引き留めたいイネス。結局、イネスの密告で、逮捕され自殺するペペ。それほどにパリへの望郷への念は強かったのだ。

 この映画で、でペペと警察の両方の世界を自由に行き来できるスリマン刑事の奇妙な役割が何とも興味深い。結局、彼の策略で逮捕されるのだが、実際、こんな刑事もきっといたんだろうな。きっと。

望郷.jpg1937年/フランス/監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ/出演/ジャン・ギャバン、ミレーユ・バラン、リーヌ・ノロ

フットライト・パレード

「上海リル」を調べたくて観た作品だが、収穫は多かった。

★★★★

 挿入歌「上海リル」への興味から、映画の内容をまったく知らずに観た。上海を舞台にした作品だと思ったらニューヨークだった。この作品、まるで2倍速で観ているように、台詞も場面転換も驚くほど早い。

 ストーリーは、以下のような感じだ。
 トーキーの流行によって失職したミュージカル・コメディーの演出家ケントは、トーキー流行の世となって失職した。そこで二人の資本家と組んで映画が始まる前のレビューを演出することを思い立ち、フレイザーとゴールドという資本主と共同して手掛けて人気を博した。だが、資本主の裏切りや、女性問題で私生活はトラブルが続出。そんな中、代役で出演した舞台が成功、いつも献身的に尽くしてくれた秘書ナンへの愛にやっと気が付くのだったノノ。

 ではどこで「上海リル」が登場するかといえば、追いつめられたケントは、3本レビューを上演し成功することを義務づけられた。その3本の1本が「上海リル」なのだった。つまり劇中劇だったのだ。しかしこの3本がそれぞれ10分ほどの長さななのだが、実に良くできていて、どれも1本のミュージカル作品を作れるくらいの手間暇とお金のかけように、さすがハリウッド!と唸ってしまう。とくに2本目は、ハリウッドでしか観られない絢爛豪華な水中レビューショーであり、エスター・ウイリムアムスの『水着の女王』を彷彿とさせるものだった。
 さて、「上海リル」は、日本軍が台頭していた上海を舞台にしたアメリカ人と上海女性の恋愛をテーマにしたショートミュージカルであり、あの甘美な「上海リル」のメロディが繰り返し流れてくる。既視感をデジャブというが、既聴感はなんと言うのだろうか。どこでこのメロディを最初に聞いたのか定かでないが、この曲は当時、大ヒットして、江戸川蘭子と川畑文子が日本語でレコードに吹き込んでいる。「いい曲は、どこかで聞いたような気がするものだ」という『クレイジーハート』の中の台詞を利用させてもらおう。

 これで「上海リル」に対する疑問は一件落着した。だがこの映画で、主役のジェームズ・キャグニーの魅力を発見したのは儲け物だった。若かりし頃に培ったタップダンスの腕前を華麗に披露してくれたり、芸達者な面を見せてくれている。


フットライト・パレード.jpg1933年/米国/監督:ロイド・ベーコン/出演:ジェームズ・ギャグニー、ジョーン・ブロンデル、ルビー・キーラー

三文オペラ

資本主義社会を痛烈に批判したブレヒトの想いを映像化した名作

★★★★

 映画好きのつもりだが、見逃している名作は数多い。音楽劇「三文オペラ」のその一つだ。原作はベルトルト・ブレヒト。残念ながらブレヒトの脚本も読んでいないし、劇も観たがことがないまま、1932年制作の映画を観てしまった。
 舞台はロンドンだが、台詞はドイツ語。少し違和感がある。どうしてこうなったかと言えば、ブレヒトの「三文オペラ」は、1728年にジョン・ゲイが書いたオペラ「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」をドイツ語に翻訳し、さらにブレヒトが改作したという経緯があり、こんなヘンテコなことになったらしい。いっそ舞台をベルリンとかウィーンあたりに変えておけばよかったと思うのだが。

 さて、先ほども触れたように、舞台はロンドン。貧民街ソーホーの顔役であるメッキー・メッサー(英語ではマック・ザ・ナイフ)は、女好きの色男。ある日、メッキーは街で偶然出会った少女ポリーを見初め、その日のうちに彼女との結婚式を挙げる。ところが、ポリーはロンドンの乞食の総元締め・「乞食王」ピーチャムの娘だった。
 そこから、メッキー、ポリー、ピーチャム、さらに娼婦ジェニー、ロンドンの警視総監ブラウンといった連中を中心に、ブラックユーモアたっぷりに話は展開していく。
 真骨頂は、作曲クルト・ワイルと作詞ブレヒトによる歌だ。冒頭、役者とスタッフのクレジットが出る場面で合唱曲がに流れる。字幕の歌詞を見れば、この作品のテーマソングみたいなものだと察しがつく。

 我々を徳ある生活に導いて 罪と悪から救い出したいなら
 まずは食い物を与えることさ 説教はそれからでいい
 自分は満腹で 礼節を求めるあなた方 結局わかることがある
 立ち直らせるために 食欲を満たせば 徳はついてくる
 飢えている者に その機会を与えてくれ
 大きなパンの そのひと切れだけでも
 生きるためには 人をだまし 痛めつけ その顔にツバを吐く
 他に生きる途はない
 それを忘れなければ 人生のレースに生き残ることができる
 紳士諸君 これは逃れられない真実だ
 人は生きる 感心できないことをして

 次に本編が始まり、手回し風琴の音楽をバックに演歌師が歌う。その歌が、「匕首メッキーのモリタート(殺し歌)」であり、後年、ボビー・ダーリンが「マック・ザ・ナイフ」のタイトルで大ヒットさせた。さらにはジャズのエラ・フィッツジェラルドを始め、数多くのシンガーによってカバーされている。

 モノクロの音楽劇は、資本主義社会への痛烈な批判を込めながら、暗い色調の中で展開される。結局、逮捕されたメッキーも保釈され、銀行を買い占めたポリー、力を合わせようというピーチャム、首になったブラウン警視総監の面々が集まり、大団円とあいなる。

 ところで娼婦ジェニーは、どこかで見た特徴のある顔だ。彼女の顔は細長く、お世辞にも美人とは言い難いが、歌はうまい。彼女の本名はロッテ・レーニャといい、彼女こそ作曲者のクルト・ワイルの妻であり、007シリーズの映画「ロシアより愛をこめて」にも出演した女優だ。KGB幹部で実はスペクターのナンバー5のローザ・クレッブを演じ、ラスト近くでホテルのメイドに扮し、靴の先から突き出した刃先でボンドに立ち向かう格闘シーンはなかなかの迫力だった。
 レーニャの話はまったくの余談だが、こうした余談がいくらでもできるほど、簡単には語り尽くせない魅力をもった作品である。

三文オペラ.jpg1930年製作、1932年日本公開/ドイツ、米国/監督:G・W・パブスト/原作:ベルトルト・ブレヒト/音楽:クルト・ワイル/出演:ルドルフ・フォスター、フィリッツ・ラスブ、カルラ・ネーヘル、ロッテ・レーニャ

カリガリ博士

歪んだセット美術が時代の気分を伝えるドイツ表現主義の傑作!

★★★★★

 見逃していた名作の中で、最大の作品はきっとこれだろうな、という予感を持ちながら、やっと観た。ドイツ表現主義の代表作品「カリガリ博士」。普通なら大学時代に観ていて当然の作品だから情けないやら安堵したような心持ちだ。

 粗筋はこうだ。
 一人の老人にフランシスが言う。「私と許婚が体験した、恐ろしい話をしましょう。」 ホルステンヴァルの祭に、カリガリ博士なる人物が「眠り男ツェザーレの予言」の見世物小屋を開いた。同時に彼が村に来てから連続殺人事件が起こる。
 友人アランを連れ、その小屋を覗いたフランシス。友人は調子にのって自分がいつまで生きられるかを眠り男に尋ねるが、答えは“明日の朝まで!”。本当に彼は翌日には殺されており、フランシスは疑惑究明に乗り出すが……。

 モノクロのサイレント映画で粒子が粗くて目が疲れるのが難点だが、映像的には今も前衛作品として通用する。全編がセット美術でつくられたスタジオで撮影されているが、その美術が何と言ってもユニークだ。テント、柱、ドア、壁、煙突、屋根などがことごとく曲線で歪んでおり、観る者を不安な気分にさせる。また、カリガリ博士と眠り男のツェザーレの顔は、目を隈取りしたようなメイクが施され、これも不気味さを醸し出している。

 すべてが人工的にデフォルメされた背景の中で話は進んでいき、最後にフランシスは、カリガリ博士の正体を突き止めたと思いきや、そこから話はくるりと180度回転する。なるほど、こういう手があったのか、と唸る他ない。
 この作品は、第一次世界大戦で敗戦国となり、深い失望や不安と多額の賠償で苦しんでいた当時のドイツ国民の気分を反映したものに違いない。

カリガリ博士・画像.jpg1920年/ドイツ/監督:ロベルト・ウイーネ/出演:ヴェルナー・クラウス、コンラート・ファイト、フリードリヒ・フェーヘル、リル・ダゴファー