書物の森

暴力団

構造不況業種となった暴力団の実態をレポート


 溝口氏は、私が尊敬しているジャーナリストの一人である。自称ジャーナリストは多いが、ほとんどは似非であり、本物は数少ない。そんな数少ない本物のジャーナリストの一人が溝口氏だ。
 溝口氏といえば、暴力団、ヤクザの世界に精通し、この人の右に出る者はいない。長年追い続けてきたその情熱、行動力、情報収集力、分析力、客観性、すべてにおいて優れており、とりわけ暴力に屈しないその勇気には恐れ入る他ない。実際、氏は暴力団に刺されて入院したこともある。本書は、溝口氏が長年取り組んできた暴力団についての集大成ともいえる本であり、暴力団について知りたい人のための格好の教科書になりえる本だと思う。

 いま全国に22の指定暴力団があり、暴力団組員数は、約3万6000人いる。バブル絶頂のピーク時には、約8万8000人して、地上げ巨額のお金を稼いでいたから、組み委員数は半分以下となり、稼ぎも激減している。
 暴力団の伝統的なシノギは、覚醒剤、恐喝、賭博、ノミ行為の4つ。大きな暴力団は、表向きには覚醒剤を扱うことを禁止しているそうだ。恐喝もいまでは割があわない。恐喝や暴力はたとえ部下の組員がやっても、民法や暴力団対策法による「使用者責任」で組長が逮捕される時代である。暴力団が得意とする暴力そのものが封じられつつある。
 氏は予測する。暴力団は、遅かれ早かれ四散する。そして、小さな組織犯罪組織、つまり反社会的勢力として、マフィアのようの存在になるだろうと。
 暴力が封じられるばかりでなく、「暴力団排除条例」によって、繁華街に事務所を開けなくなり、民間アパートを借りることもできない時代がやってきたのだ。
 違法な手段で金を集めて華やかな生活をする姿に憧れて若い不良たちが暴力団に入ってきたのは、昔の話になりつつある。また、暴力団に入っても上納金を複数の親分に上納しなければならないし、足を洗おうと思えば、かなりの痛手を覚悟しなければならない。暴力団員になってもシノギ(資金獲得法)ができず、惨めで貧乏な暮らしがつづき、しかもやめられないとすると、誰も暴力団員になりたいとは思わないだろう。暴力団は、完全な構造不況業種なのだ。

 一方で、半グレ集団を一章を割いて溝口氏は紹介している。なぜなら暴力団にとってかわるのが半グレ手段だと予測しているからだ。例の市川海老蔵暴行事件で名前を知られた関東連合OBは、暴力団ではなく、半グレ集団であり、元暴走族のOBたちが中心になって構成されている。
 では半グレ集団と暴力団は、どう違うのか。最大の違いは、暴力団の有名性・公然性に対して、半グレ集団の匿名性・秘匿性が挙げられる。暴力団は、「オレは、○○組の者じゃ」と名乗ることで力を誇示し、相手に恐怖を与えて、ミカジメ料を取る。それに対して、半グレ手段のシノギは、振り込め詐欺、出会い系サイトの運営、偽造クレジットカードの使用、ネットカジノ、ネット利用のドラッグ通販、ペニーオークションなど、詐欺的なシノギが多く、できる限り存在を知られないようにしている。
 またネットを使ったシノギが多いことから分かるように、IT関連に強いことも特徴的だ。また、カネにはシビアでドライであり、老人や社会的弱者から、「命ガネ」を奪うことをためらわない。「ゲーム感覚で人殺しをするような不気味さをもっています」と、溝口氏も指摘するように、実に気味が悪い存在なのだ。
 今後、暴力団が四散しても、半グレ集団が台頭するなら、市民と警察は、引き続いて警戒を怠ることはできない。そんなことも本書では教えてくれる。

暴力団.jpg(溝口敦著/新潮新書)

潜入ルポ アマゾン・ドット・コム

急成長を続けるアマゾンという怪物を徹底解剖!


■安い、便利! 使い出したら、やめられない!
 私は「アマゾン」の利用者である。ヘビーユーザーではなく、ごく普通のユーザーだと思っているが、最初の頃は、映画のDVD作品をかなり買い込んだ。次いで中古本に手を出し、いまは文具関係もアマゾンで注文したりする。
 理由は簡単だ。とにかく便利! これに尽きる。
 膨大な商品の中から、目当てのものがあるかどうかが数秒で分かる。この圧倒的な検索性の高さがやはり魅力だ。
 もう一つは注文すれば2、3日で届き、しかも郵送料はゼロ。アマゾンの登場までは考えられなかったことだ。革命的といっていい。
 この他にも、かなりの値引きをしていたり、購入者による商品評価についてコメントがつているので、購入の際の判断材料にはなる。
 この当たりがアマゾンを利用するメリットといえようか。そしてアマゾンは、世界中で急速にマーケットを伸ばしている。

■読みたいと思った2つの理由
 実は、この本を読もうと思ったのには、2つの理由がある。
 1つは、急成長しているアマゾンで働くワーカーたちの環境が劣悪だという話を聞いていたからであり、この本ではその状況がリアルに知るこことができるのではないか、という期待があった。
 2つ目は、中古本市場<マーケットプレイス>の存在が気になっていた。新刊本と中古本を同時に扱うことは、普通では考えられないことだ。同じ本で、隣に安い中古本が並んでいたら、そちらを買うだろう。新刊本の売れ行きに悪影響を及ぼすのでのはないか。にも関わらず、中古本を扱っている理由とはなんだろうか。
 さらに中古本で、1円の値段がつけられた本が結構ある。これにも最初は驚いたものだ。「出品者は1円で儲けることができるのか?」。どんなカラクリになっているのか。
 この2つの疑問が入道雲のようにわき出し、何とか早く読みたいと思っていた。そして読んだ。

■フリーロケーションという手法
 1つ目の労働環境について。著者の横田氏は、労働実態を探るため、覆面潜入ルポを試みている。実際に自分が現場で働くほど確かなことはない。
 彼はそこで誰でもできるような物流システムの中で働く恐ろしく単能化された労働者の姿を見た。本について精通する必要もない。その理由は、「フリーロケーション」という独自の並べ方を導入しているからだ。カテゴリー別、出版社別、著者別などには並んでない。それらとは関係なく、アトランダムに棚に入れた本をコンピュータに記憶させ、コンピュータの数字をみてピックアップするだけだ。しかも1分間に3冊というノルマが課せられる。無駄口をたたいている暇などまったくない。
 アルバイトでもきるシステムで働く人々にとって、仕事に喜びが生まれるはずもなく、また給料も上がらない。何年たっても同じ給料だ。時給900円で8時間・25日働いても手取り15万円ほどにしかならない。1年間はたいても年収200万円。これでは将来設計像が描けない。

■1円本のカラクリ
 2つ目。マーケットプレイスにおける1円本の古本のカラクリは分かった。送料が340円(2010年8月、250円に値下げ)かかるので、購入者側は341円支払うことになる。普通のメール便(A4・厚さ1cmまで)は80円なので、出品者側に261円残る。だが、出身者はそこからアマゾンに手数料を払わないといけない。手数料には3つある。
 1.売値の15%の手数料
 2.古本を1冊売るごとに<カテゴリー成約料>をして80円(60円に値下げ)
 3.さらに1冊ごとに<基本成約料>として100円
 カテゴリー成約料と基本成約料の両方あるのが不思議だが、つまり、最低価格の1円で売った場合、郵送料の261円から180円を引いた81円が利益ということになる。1円本のカラクリとは、こういうことだ。
 しかし、81円では手間暇を考えたらやっておれないだろう。さらに送料が250円に下がったため、カテゴリー成約料が60円にさがっても利益は11円にまで激減している。一方、アマゾンは、例え1円本でも手数料の180円(値下げ後は160円)が入ることになる。
 価格を1,000円に想定してみよう。出品者が受け取るのは740円。アマゾンは330円。この330円は、在庫も出荷の手間も人件費もかけずに生み出すお金である。アマゾンは、このマーケットフレイス進出後、急速に財務体質を改善させ、成長の勢いを加速させることになったのだ。つまり、新刊本より中古版本の方が3倍ほどの利益を生む。だから両方が並んでいるのである。
 ちなみに1円本に関してだが、最安値をつけるソフトがあり、同じ本の出品者が、同じソフトを使っていたら、自動的に1円本が生まれるというわけだ。最近は、この手の1円本が減ったような気がする。

■わずか5年でトップに並び、そして抜き去る!
 もう随分以前から街の書店の姿がどんどん消えている。2001年で2万軒あった書店が、2011年には約1万5000件にまで減っている。実感としてはもっと減っているような気がするのだが‥。
 書店全体の売上は減少傾向のなか、急成長を続けているのが、このアマゾンである。リアル書店(アマゾン等のネット書店に対しての名称)のトップクラスが紀伊国屋と丸善で、1000億前後の売上を誇っている。実は2004年時点で、アマゾンは、リアル書店のトップクラスと肩を並べ、2011年の売上は1275億円。丸善も紀伊国屋も抜き、売上トップの位置にある。
 丸善は、明治時代の創業で社歴は100年以上、紀伊国屋書店は、70年以上の歴史を誇っているが、アマゾン・ジャパンが、日本でネット書店のサイトを立ち上げたのは2000年のこと。わずか4、5年でトップクラスに成長し、さらに軽々と追い越してしまった。そして古書店の売り上げでも、アマゾンは断然トップに躍り出ている。ネット時代だからこそ可能になった厳然たる事実に、改めて驚くばかりである。

 本書には、この他にも日本における再販制度、書店のあり方、あるいはいま話題に電子書籍などについても触れている。興味のある人はぜひご一読を!

潜入ルポ アマゾン・ドット・コム.jpg(横田増生著/朝日文庫/2010年11月)

街場のメディア論

クレーマーたちに荷担するマスコミを痛烈批判


 語り口はソフトで優しいが、内容は極めてラディカルかつ批判的である。内田氏は合気道の達人でもあるので、自分の言説には真剣勝負で挑んでいるような気構えを感じる。気骨の人でもある。
 目次をパラパラとめくるだけで、刺激的なコピーがいくつか目に付く。
「キャリアは他人のためのもの」
「キャリア教育の大間違い」
「マスメディアの嘘と演技」
「クレイマー化するメディア」
「被害者であるこうことが正義?」
「「正義」の暴走」
「患者は「お客様」か」
「変化がよいことではない場合」
「本を読みたい人は、減っていない」
「出版は内部から滅びる」

 刺激的なテーマに対して、その根拠を理路を尽くして書かれている。
 マスコミ批判に関しては、私自身が日頃感じていたことと同じ意見だったので、わが意を得たり!と大いに気をよくした。とくに医療に対する「正義」の顔をしたマスコミの暴走ぶりは歯止めがかからない。医療過誤による訴訟事件を恐れて、産婦人科や小児科の医師が激減していることは誰しも知るところだが、それは誰のせいなのか。訴えた患者側が常に正しいような報道姿勢は大いに疑問だ。
 ここで内田氏が提示した、「推定正義」なるコトバは新鮮で、かつ的を得ている。病院に対して弱者である患者をとりあえず「推定正義」として報道をスタートしても、その後は公平にジャッジすべきであろう。にもかかわらず、「推定正義」のままの報道が続くのはやはりおかしい。

 またマスコミは、過度な市場原理主義がもたらす弊害に対して、的確な批判をしないのか。それも不思議で仕方がなかった。市場に任せておけば、すべて妥当かつ理想的な所に着地する。「最も安価で最もクオリティの高いものだけが商品として流通する」。こうした妄想をまだ抱いているのだろうか
 市場原理種の導入を求められた医療の現場では、患者を「お客様」と呼ばせている。また教育現場でも、学生をお客様と捉え、学生たちが教授陣を採点し、点数の悪い教授には指導やご退場を願っている大学さえあることを私は知っている。
 何にでもクレームを付けないと気が済まない人たち、いやクレームをつけることで、商品やサービスの質が向上すると信じているクレーマーたち。そのお先棒を担いでいるのがマスコミではないかと内田氏は指摘する。

 また内田氏は、マスコミの本質は、変化を追い求めるものだという。ニュースとは、新しいことであり、変化のことである。変化がなければ商売は成り立たない。では最大の変化と人々が最も関心を寄せるニュースとは何かといえば、戦争に他ならない。だからマスコミは戦争が好きだ。アメリカにおいて米西戦争をハーストとピュリッツアーが煽ることによって新聞は爆発的に発行部数を伸ばし、彼らは新聞王としての地位を築いた。

 戦争好きは言い過ぎだとしても、本来、市場京原理になじまない医療や教育の現場にまで変化を求めるマスコミの姿勢はいかがなものか。
 こうした一連の耳の痛い指摘に、マスコミの人たちは、どう答えるのだろうか。興味のあるところだ。

街場のメディア論.jpg(内田 樹著/光文社新書)

伊勢詣と江戸の旅

膨大な資料から事実を抽出。
江戸時代。憧れの伊勢で散財する庶民たち。


 2月某日の伊勢詣計画に合わせて購入した『伊勢詣と江戸の旅』。読み出すと、これが面白いのなんの。江戸人となって一緒に旅している気分になってしまうほどだ。しかも副題に「道中日記と旅の値段」とあるように、膨大な資料から事実を炙り出して記述しているため、信用して読めるのが何よりもありがたい。

 私も旅は好きだが、江戸時代の庶民は、私以上に旅が好きで、「伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめてな〜一生に 一度でも」と伊勢音頭の歌詞にもあるように、伊勢詣への憧れが強かった。そして単なる憧れに終わらせず、伊勢講をつくって毎月少しずつお金を貯め、2、3名が代参として行ったり、あるいは全員で参ったりしている。
 そして伊勢に着くやいなや、その大散財ぶりには呆れるばかりである。それでも彼らは大いに満足した。そう思わせるほどの接待ぶりでもあった。接待をしたのは、伊勢詣の御利益を訴え、伊勢詣をしやすいように伊勢講を仕掛けた御師(おんし)の存在である。いまでいう旅行代理店だ。伊勢に着いた彼らは御師たちによって緋毛氈の駕篭に迎えられ、御師の大邸宅では朝から御馳走づくめの食事をし、寝るときは絹の蒲団が出る。神楽の奉納をした一行は名所旧跡をめぐり、遊女屋の見物を行い、土産の購入をするのだった。
 伊勢詣が終われば、ついで奈良、大阪、京都を巡り、さらに四国の金比羅山まで足を伸ばしたり、善光寺を回るなどして、地元に帰ったのである。
 命の洗濯をした彼らから伊勢での接待や旅の様子を面白おかしく話を聞かされれば、次はオレの番だと期待は風船のように膨らみ、日々の辛い労働も少しは気が紛れたことだろう。

 伊勢詣の中でも、突発的に起きるのがお陰参りであり、ほぼ60年周期で起きている。中でも文政13年(1830年)のお陰参りは最大級のもとなり、3月末から9月までに約486万人が伊勢に参るために宮川の渡しを通ったという記録が残っている。19世紀中頃の全国の人口が2952万人と推定されているから、6人に一人が出かけた計算になると本書で紹介されている。それにしても膨大な数である。まるで民族大移動のようだ。

 本書には、伊勢詣の他にも、世界で一番安全だったと言われる街道をはじめ、「旅の経費とみやげ」「宿泊の値段」「大河を渡る」「往来手形」「旅人の保護」「街道で稼ぐ」「遊女」「宿引き」「飛脚」といった項目を設けて、江戸の旅について細かく記している。
 封建制度のもとで土地に縛り付けられ、搾取されていた庶民のイメージとは違って、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に描かれた弥次・北コンビのように、旅好きな庶民たちのリアルな姿を知ることができる貴重な本である。

伊勢詣と江戸の旅-1.jpg(金森敦子著・文春新書)

「裸のサル」の幸福論

狩猟を始めたヒトは何を幸福と感じたか?
これを核に展開される刺激的幸福論


 「人間は霊長類の中で唯一、体毛のない「裸のサル」である。そう断じてかつて世界的センセーションを巻き起こしたモリス博士が、今度は「裸のサル」の幸福の本質に迫る。競争、協力、達成感からダンスやSM、果ては麻薬まで、人間に幸福をもたらすあらゆる源泉を、動物行動学者の視点から網羅的に分析する。ヒューマニズムとは一線を画した全く新しい幸福論。」
 以上は、出版社の内容紹介文だが、これでは具体的なことは何一つ分からない。興味を持った人は、中身を読んでくれ!というわけだ。
 実は、帯の文句の方が面白い。
 「買収を繰り返すIT企業家、記録に挑み続けるアスリート、コカインにはまった麻薬中毒者、災害救助に駆けつけるボランティア、「敵」を吹き飛ばす自爆テロリスト、子供を授かったお父さん、他人をいじめぬくサディスト……彼らは皆、それぞれに幸福です。」
 なかなか刺激的なコピーであり、誰しも読みたくなるのでは…。

 さて本論に入ろう。モリスは博士が考える幸福は一つだけでなく、17通りあるという。だからより多くの方法を手に入れば、より多幸感が増すと考える。
 だが中にはマイナス要素の多い幸福もあるから、メリット、デメリットを考えるべきだとも警告する。例えば、化学的幸福は、いわゆるジャンキー(麻薬服用者)の幸福であり、一時的な幸福の代償に、身の破滅をもたらす可能性が高い。あるいは、痛みの幸福は、マゾヒストの幸福である。自分の心身を痛めつけるだけならいいが、それを社会全体に及ぼそうとするとき、害悪を垂れ流すことになると指摘する。

 モリス博士が考える幸福論の核となっているのは、サルとして、平穏でくりかえしの多い、果実を採集して暮らす樹の上での生活を捨て、それよりも困難な、獣の群れを追いかける平地での生活を始めた進化したサルの存在である。
 狩猟するハンターへと変身した人類には、「協力」「コミュニケーション」「知性」「勇気」、そしてある特定の目的を達成するための「集中する能力」などが必要とされるようになった。
 狩りに出て獲物を仕留めるという基本的衝動の満足。そこで得られる幸福を強調するモリス博士は、「今日見られる不幸の大半は、人生の中で、こうした狩猟的本能の充足に類した活動が失われたところから生じていると信じています」と語る。

 さらに興味深いのが、次の指摘だ。
 人類は、その後の農業革命によって、余剰生産物が生まれることで、神職、王国貴族、様々な専門職など、農業生産に携わらなくていい存在が生まれ、階層分化が進んでいった。だが特権階級は一部であり、大半は、農地に縛り付けられ、毎日地味で退屈な野良仕事におわれるのであった。モリス博士は、こうした仕事は草を食む家畜に相応しいものであって、知性を持った、目標追求型の、創造的な男女に相応しいものではないという。日本でこれほど大胆な発言ができる学者はいないだろう。
 そして続く産業革命で、状況はさらに悪化した。「工場労働者たちは、労働の最中に空を見ることができません」と嘆き、古代ギリシャの奴隷は、現代の賃金労働者によって置き換えられ、こうした労働に喜びなどなどなく、彼らにとって、幸福の瞬間とは労働の外に限定されたものだと指摘する。
 そして幸福は、趣味や休日に見出されるものとなって、人生の中心にではなく隅っこに追いやられたのだ。

 また、「幸福のレベルの違いは、むしろ個々人のパーソナリティの違いと深い関係があるように思います」という指摘も面白い。仮に幸福への性向を1から10までのレベルで登録すれば、自分の環境がどうであれ、「8」や「9」を付ける人はいる。逆に、人生がすべて順調にいっているように見えるのに、「2」「3」しか付けられない人もいる。ここが幸福論のややこしいところだ。つまり幸福に対する心のもち方で随分と違ってくる。同じ事態に遭遇しても、楽観主義者と悲観主義者とでは、受け止め方が大きく違ってくるだろう。
 最後に博士は、「幸福の通信簿の点数を上げたいのなら、最良の答えは、幸福はたった一つしかない、との考えを拒否し、その他すべての幸福の源泉を精査してみることです」とアドバイスする。自分なりに幸福論を考えるとき、本書はきっとその手助けをしてくれるだろう。

「裸のサル」の幸福論.jpgデズモンド・モリス著/新潮新書

ボディウォッチング

ヒトの体こそ最も興味深い有機体である。自己発見の航海に出かけよう。

 “灯台下暗し”という言葉があるが、本書を読んだときの感想こそ、これであった。私たちは、いや少なくとも私は、ヒトの体について無知も同然であった。
 「ヒトの体こそが全動物界において他に類を見ない最も興味深い有機体である」とする行動動物学者のデモズンド・モリス博士が、ヒトの体を、髪の毛から足の先まで、20のパーツごとに、解剖・行動・進化・歴史・文化といったあらゆる角度からの吟味と考察をする。その手法は、「人体の表面をあたかも初めて見る風気であるかのように取り上げ、旅行者が異国の島をつぶさに調べるように、人体を少しずつ探査する方法」であり、それは「自己発見の航海」にも似たものだ。
 実際、読んでみると、項目ごとに新発見の連続であり、興味深い数々の考察に思わずうなり、納得したものだ。例えば「頭髪」について、博士は次のように言う。

 「頭のてっぺんに生える毛は、人体の中でも最も奇妙な特徴の一つである。」
 「一〇〇万年以上もの間、われわれは全裸に近い体で、ただ伸び放題の毛を頭に頂いて駆け回っていた。」
 「頭髪は、われわれを他の霊長類とはひどく違って見せた、つまり、それが遠くからでも目立つ「種の信号」だったということである。裸の頂にある大きなボサボサ頭は、一見してヒトだとわかり。たれ下がった長髪は旗としてなびいていたのである。」

 当たり前だと思われていたことが、実はひどく特殊で、新しい意味を持っていることが分かる。中でも認識を新たにしたのが「足」だった。

 「人類にとっての初めての偉大な一歩とは、遠い祖先たちが初めて二本足で踏み出したその一歩なのであった。後足で歩き出したその瞬間に、われわれは前足を開放して物をつかみ、物を操作できる手とした。ヒトは、道具をつくる手W用いて世界を征服したのである。
 このように足には大きな恩義を負うのであるから、人体構造の中でも最も重要な部分として十分な尊敬を払うべきである。しかし、われわれは片意地にもそれをしようとはしない。それどころか、足をいたく酷使するのである。その生涯の三分の二を、窮屈な革の独房の中で過ごさせてしまう。」

 この部分を読んで、思わず足に謝りたい気持ちになったものだ。確かに、前足だった手の進化によって、我々の関心は手ばかりに移り、後足である足にはほとんど関心も敬意を払ってこなかった。本来、足の親指は手の親指を同じ向きについており、物をつかむことができたのだが、いまは歩行器の役目を負わされ、親指も他の4本と同じ向きに並んでしまい、靴の中で過ごさせているのだった。

 この他にも本書から多くのことを発見できるが、次の2点を紹介しておきたい。
 博士は、現在のヒトの体の原型は、2本足で立ち、道具を使って狩猟に出かけるようなった頃に形成されたと考えている。だから男は、狩猟に適応するように、女性に比べて背が高く、肩も背中も広く、首は太く、握力が強く、脚も長く強靱にできているというわけだ。
 もう一点は、ヒトから動物的な欲求を無視することは、不幸を招くという指摘だ。
 「どこの与党でもよくやることだが、理想的な市民像が描かれる場合には、それは実在からひどくかけ離れたものになってしまうのである。
 例をあげてみよう。ある文化では個人的ななわばりをもちたいという欲求を認めず、他の文化では愛で結ばれた家族の単位を築きたいという熱望を過小評価した。さらに別の文化では人間の好奇心と創造力がもつ反抗的側面を無視してきたのである。このような過ちはやがて社会不安を招き、当の指導者たちはその結果の責めを負うことになる。」
 理想的な社会を有り様を考えるとき、大いに考慮されてしかるべき点だ。
 本書は読み手自身の発見能力を試される、格好のリトマス試験紙でもあるようだ。

ボディウォッチングWeb.jpg(デズモンド・モリス著/小学館)

創られた「日本の心」神話

「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史

常識を覆す画期的な「演歌」論であり、詳細かつ明快な戦後大衆音楽史として貴重!

 いやあ面白かった。まるで推理小説を読むようでもあり、その参考資料の膨大さ(巻末の参考文献を数えてみたら188冊あった)から、博士論文を読んでいるようでもあった。
 「演歌」といえば、「日本の心を歌いあげる」と枕詞のような形容詞がついても、別に不思議に思わない人が大半だと思う(私もその一人だった)。ところが著者の輪島氏は、明治大正時代から、昭和の戦前・戦後、そして現在に至るまでの大衆音楽に関する膨大な資料を詳細に検証し、分析していく。その結果、「演歌」=「日本の心」という図式は、実は意図的に創られたものだと指摘する。
 演歌は、明治の自由民権運動の中で現れ、昭和初期に衰退した。だが1960年代後半に別の文脈で復興し、やがて「真正な日本の文化」とみなされるようになったという。たかだか40年程度の歴史しかない、ごく新しいものである。では誰がどのような目的で先の図式を創ったのか。新書判といえ、350頁もある著作から、少し長くなるが、核心に触れる部分だけを引用してみよう。

 本書で明らかにしたかったのは、「演歌」ないしは「艶歌」が「日本的」なものとして真正性を付与するにあたっては、股旅やくざと遊女、その現代版としてのチンピラとホステス、そうした人々の空間である「盛り場」といった、「健全なお茶の間」の公序良俗の空間から危険視されるアウトローと悪所にこそ「真の」民衆性が存在するのだという発想があった、ということです。
 いいかえれば、やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正な下層プロレタリアート」であり、それゆえに見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが過可能になった、ということです。
 昭和三〇年代までの「進歩派」的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものであった「アウトロー」や「貧しさ」「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという一九六〇年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修司や五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見出し、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。

 どうだろうか。60歳前後の人であれば、「そういえば」と思い当たることも多いのでは。当時、「演歌」について活発に発言していた文化人には、寺山や五木の他にも、平岡正明や竹中労などもいた。1970年前後、既成左翼政党に対する幻滅から、新左翼とでもいうべき人たちによって、「革命はルンペンプロリアートたちが蜂起する形でしか成立しない」と言われていたことと、著書の指摘は符合するようだ。
 この他にも、「昭和」を感じさせる音楽スタイルをもったクレイジーケンバンドや、大西ゆかりと新世界などが創りあげた「昭和歌謡」についても興味深い指摘がなされていることを付け加えておきたい。

創られた「日本の心」神話.jpg(輪島裕介著/光文社新書)

日本辺境論

多くの示唆を与えてくれる名著。
日本人論の決定版かも?

2010年新書大賞の本を読む

 2010年の新書大賞第1位に選ばれた本です(ちなみに本コーナーで採り上げた『ルポ 貧困大陸アメリカ』(堤未果著/岩波新書)は、2009年の新書大賞でした。こちらもどうぞ)。カントやハイデッカーなどの哲学者も登場してやけに難解な部分があったり、首をかしげる部分もありましたが、それ以上に納得部分や、目から鱗が落ちる部分があり、とても得した気分です。私なりにいくつかピックアップして、感想をのべてみます。

他国との比較でしか自国を語れない日本人

 まず内田氏がいう辺境とは何かを紹介しておかねばなりません。
 「辺境」とは「中華」の対概念です。そして紀元239年に、邪馬台国女王卑弥呼は、魏帝に朝貢して「親魏倭王」の称号を授けられ、魏帝から正式な官位を授けられています。
 「日本列島の住民が世界史に登場する最初の事件は、辺境の自治区の支配者として魏帝に認知されたことです」(内田氏)。
 つまり、日本は辺境であり、文化的後進国であり、ありがたいものは、中華からやってくるという精神が身に染みついているというものです。
 そして、「もし辺境人がほんとうに中華思想を超克し、華夷秩序の呪縛から逃れ出したいと思っているなら、それは中心と周縁の物語とは別の物語を創り出すことによってしか果たされません」と断言します。
 これは本当に鋭い指摘であり、「他国との比較でしか自国を語れない」という指摘にも通じています。
 「他国との比較でしか自国のめざす国家像を描けない。国家戦略を語れない。そのような種類の主題について考えようとすると思考停止に陥ってしまう。これこそが日本人のきわだった国民性格です。」
 つまり、目標とするもの、模倣すべきもの、追いつくべきものを、時代ごとに設定し、目標達成に向けて日本人は懸命に頑張った。手先が器用で真面目な日本人は、かなりの速度で近づくことを可能にしてきました。でも、もし日本が世界のトップに立ったとしたら、何をしていいか茫然自失、途方に暮れるでしょう。今までそんなことを考えたことすらなかったのですから。

未熟、未完成を正当化できる「道」。長年の疑問が解消!

私自身、つねづね不思議に感じていたのが、「道」というものです。剣道、柔道、書道、華道など多彩です。最近では、ラーメン道を蕩々と述べる輩までいます。何でも「○○道」にしてしまう日本人。その道に精進する日本人は、悪いとは思いませんが、なぜ日本では、「○○道」が流行るのでしょうか。日本人は、日々努力し、成長する自分を好きなんだろう。漠然とそんな風に考えていました。
 『「道」はまことに優れたプログラムではあるのです。けれども、それは(誰も見たことのない)「目的地」を絶対化するあまり、「日暮れて道遠し」という述懐に託されるようなおのれの未熟、未完成を正当化してもいる。』
 さらに『「私自身が今ここで」というきびしい条件は巧妙に回避されている。』
 だから、質問されても、「まだ修行中の身だから、分かりません」と平気で応えることができるのだ、という指摘は鋭く、示唆に富んでいます。私自身、今までの「道」に対する疑問が解消したような気がします。

政策論争よりも、組み手争いが先行する討論番組

 さらに面白かったのが、政策論争の話です。「朝まで生テレビ」をはじめ、様々な討論番組を見ていると、不快に思うことが多く、ときには、「声や態度がでかけりゃいいのか」とさえ思ったりします。
 『私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらう」ということにはあまり(ほとんど)努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。テレビの政策論議番組を見ていると、どちらが「上位者」であるかの「組み手争い」がしばしば実質的な政策論議よりも先行する。うっかりすると、どちらが当該論件について、より「事情通」であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります。』
 この内田氏の文章を読んで、わが意を得たり、の心境になりました。

世界でも稀なハイブリッド言語を操る日本人

 日本語の特殊性についても紹介しておきましょう。
 日本語はどこが特殊か。それは表意文字と表音文字を併用する言語だということです。もちろん、漢字が表意文字で、かなは表音文字です。表音文字は図像で、表音文字は音声です。
 「私たちは図像と音声の2つを並行処理しながら言語活動を行っている。でも、これはきわめて例外的な言語状況なのだ」と内田氏は指摘します。
 私も同感です。さらに人称の複雑さ、尊敬語・丁寧語などを含めて、外国人が日本語を習得するのは、極めて困難であり、「悪魔の言語」と言われているのも合点がいきます。
 ハイブリッド言語について、さらに説明は続きます。
 『かつて中華の辺境はどこもそのようなハイブリッド言語を用いり、朝鮮半島ではハングルと漢字が併用され、インドシナ半島では「チュノム(字喃喃)と漢字が併用されていた。』
 なるほど。だが、韓国は戦後すべての公用文を原則としてハングルだけを用いて表記する法律が制定され、1968年に漢字教育が廃止されました。ベトナムも1954年に漢字は公式に廃用され、それに代わって、17世紀にフランス人宣教師が考案した「クオックグー(国語)」という表記体型が採用されました。つまり、現在、ハイブリッド言語は日本にしか残っていません。
 ここまではすべて納得。私が感じていた日本語の特殊性を内田氏が見事に整理してくれました。

「真名」と「仮名」にみる辺境の日本人

 先ほどの日本語論は、前段であり、後段で紹介されている説こそ、まさに日本辺境論としての日本語論です。
 『日本列島はもともと無文字社会です。原日本語は音声でしか存在しなかった。そこに漢字(真名)が入ってきて、漢字から二種類のかな(仮名)が発明された。(中略)外来のものが正統の位置を占め、土着のものが隷属的な位置に退く。それは同時に男性語と女性語というしかたでジェンダー化されている。これが日本語の辺境的構造です。』
 まことに不勉強だった。そうか、漢字を「真名」と呼ぶのか。つまりこちらが正統で、「仮名」は、従属的な立場なんだ。言語がそうなら、精神だってそうならざるを得ないだろう。考えてみれば、文字(漢字)も宗教(仏教)も近代兵器(鉄砲)も戦後の憲法も、みんな外来のものばかりだ。それをうまく使いこなすのが日本人の特性といえばいえるだろうが‥。
 内田氏の結論は、こうです。
 『「真名」と「仮名」が絡み合い、渾然一体となったハイブリッド言語という、もうそこを歩むのは日本語だけしかいない「進化の袋小路」をこのまま歩み続けるしかない。孤独な営為ではありますけれど、それが「余人を以ては代え難い」仕事であるなら、日本人はそれをおのれの召命として粛然と引き受けるべきではないかと私は思います。』
 日本の辺境としての特性を認識したうえで、優れた特性を活かそうではないかという提案ですね。同時にこれは、日本には、自らの物語を語り、世界に思想を広め、文明のあり方を説くことはできない、という諦念が前提条件としてあります。少し寂しいけど、仕方ないかも知れません。

日本辺境論.jpg(内田 樹著/新潮新書)