書物の森

儒教・仏教・道教 ー東アジアの思想空間

寄せ集め的で、頭もシンクレしてしまいそう

 最近、年齢のせいか、妙に気になりだしたのが、儒教・仏教・道教の3つ。いわゆる世間を形づくっている常識というやつの正体は、この3つがかなりの影響を与えている。何を今更といわれそうだが、渾然一体となっておりわかりにくい。
 そこでこの3つを腑分けしてみたいという気になり、各分野の本を読み進めたり、大阪市立美術館で開催された「道教の美術」(日本初の最大の道教の美術展というふれこみだ)を見に行ったりしたものだ。そしてこの本にであった。ちょうど3つを採り上げて分析しょうというわけだ。ちょうどいい。
 語り口は、読みやすいが、エピソード集を集めた感じで、事実のディテールにこだわるばかりで、3つの関係が分かったようでわからない。東アジアは、この3つがシンクレティズム(融合)しているという主張は分かるが、もう少し大胆に腑分けしてほしかった。でないと、こちらの頭も、シンクレ(融合、混在)したままで、すっきりと整理し切れない。事実ばかりが散らばった部屋みたいなのだ。これはあくまでも僕の願望なんだけどね。
 この本を読んで、僕自身が勝手に3つを大雑把にわけてみた。仏教は個人の不安からの脱却法を教え、儒教は現世での大人としての上手な付き合い方を教え、道教は、出世できなかった者が、呪いなどに頼って、幸せを掴もうとするもの。本来の主旨はさておき、一般庶民、つまりユーザー側がはこのように3つを捉え、使いわけていたのではないか。そんなふうに思えた。

儒教・仏教・道教.jpg(菊地章太著/講談社選書メチエ)

マレーの虎 ハリマオ伝説

アイデンティティの喪失に苦悩する若者。
実在のモデル、谷豊の実像を浮き彫りに!

マレーシア旅行を機に、再読する

 小学生時代にテレビで熱中してみた「怪傑ハリマオ」には実在のモデルがいたことを知ってから調べだしたのは、10年以上も前のことだ。そして本書『マレーの虎 ハリマオ伝説』を読んだことで、谷豊の人物像や時代背景を知ることができた。
 その後も、戦前の大映映画『マライの虎』(1917年)を見たり、『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』(山本節著/大修館書店)を読み、舞台となったマレーシアへも旅行した。豊が少年時代暮らしていた東海岸のトレンガヌには行けなかったが、マラッカ、クアラルンプール、クアラ・スランゴル、スンカイ、キャメロンハイランド、イポー、ペナン島‥‥とマレー半島の西海岸を半分ほど縦断した。普段馴染みのないイスラム寺院を訪れ、その美しさに感心したり、街中で流れるアザーンを耳にすることができた。また、熱帯ジャングルに触れることができたのも大きな収穫だった。そして帰国後、本書をもう一度読み直す。

親族、F機関などから聞きとり調査

 ハリマオのモデルである谷豊とは、どんな人物だったのか。それをさぐるために、著者の中野不二男氏は、豊の実家・福岡で実の弟、2人の妹、同級生たちから話を聞く。
 続いて、陸軍中野学校のF機関の人たち、F機関に協力して働いていた民間人たちを尋ね、彼らの証言を精力的に集める。
 そして最後に著者はクアラルンプールに飛び、豊が入っていた刑務所を探し、さらにシンガポールでマラリアの豊がかつぎ込まれた陸軍病院を突き止め、最後に、葬られた墓地を探し出した場面で、本書は終わる。
 その間、豊かに影響を与えた父親の存在、トレンガヌの紹介、陸軍中野学校およびF機関の役目なども紹介されていく。

なぜ、豊はハリマオになったのか?

 満州事変をきっかけにアジア各地で、日本人排斥の動きがあり、トレンガヌにおいても、暴徒化した中国人たちが、次々に日本人の店を襲い、2階で寝ていた豊の妹・静子の首を切り落としたのだ。
犯人はイギリス人の警察で逮捕されたが、裁判で無罪となった。それを知った豊は裁判所まで抗議にいったが聞き入れず、マレー人の仲間と華僑の家を荒らし回る。やがてマレー人の子分達ができ、一緒に行動するようになった。盗みはしても殺しは一切しない。また、何度か捉えられたこともあった。このころから、「ハリマオ」の名前が広がっていたらしい。
 これを知った日本軍は、豊を日本陸軍のマレー・シンガポール侵攻作戦に利用できないかと考え、彼を作戦に引き入れたのであった。そして豊は、日本軍のために働き、31歳にマラリアに罹り、病院で死亡した。
 陸軍は、豊の遺品を日本の遺族のもとに持ち帰り引き渡す。そのときマスコミ各社が取材におとずれ、新聞紙上に「ハリマオ」の名が登場する。以後、映画、紙芝居、講談などで、日本国民一般に広く知られるようになったのだ。

なぜ日本軍に協力したのか?

 豊は、なぜ日本軍に協力することになったのか? 実はこれは難しい問いであり、答えは2つの説が考えられる。
 一つは、殺された妹への復讐から日本軍に協力したという「復讐説」だ。直接殺害した中国人への憎しみはもちろん、犯人を無罪にしたイギリスに対しても復讐しようと考えていたというわけだ。
 もう一つは、「日本人回帰説」だ。もともと小さい頃にマレーシアで暮らし、小学校で日本に帰ったが、日本語を話すことが出来ずに嫌な想いをしていた。その段階で、アイデンティティの危機に晒されていた。自分は日本人なのかマレー人なのか。帰国子女の多くが抱える危機といえよう。
 さらに豊は、徴兵検査で身長が155cm未満だったために、甲種、乙種(この2つが現役に適する者)には落ちて、丙種合格(国民兵役には適するものの、現役に適しないもの)となった。
 日本人の美徳と誇りを大切にする明治男である父親のもとで育った豊にとって、徴兵検査の結果は、大きなコンプレックスとなったに違いない。
 その彼に対して、F機関は「日本人として、日本軍のために働いてくれ」と口説いたのである。豊の気持ちがそちらに傾斜したことは考えられる。

最後はマレー人として死す

 彼の役目とは、マレー半島上陸後の日本軍の進撃に呼応して、退却するイギリス軍の先回りをし、施設を破壊し、退路を断つ。もし遅れた場合は、追撃する日本軍のために、爆破装置を撤去することだった。
 彼は開戦の1939年12月8日から、シンガポールで息を引き取る翌年の3月17日までの99日間、日本軍のために働き、マレー半島の密林を縦断したのだった。
 マレー半島の鬱蒼たるジャングルを駆け抜けた豊は、凄い。マングローブやヤシ等の木々をかき分けで進むだけも大変だが、高温多湿なジャングには虎もいれば、マラリアに罹る恐れもある。
 実際に日本人としての義務を果たした後は、マラリアに罹って、シンガポールの陸軍病院に担ぎ込まれる。
 F機関の藤原大佐は、豊を下士官待遇にしようと考えていたし、もしもの場合は機関葬で弔おうと考えていた。だが、すでにイスラム教徒に改宗していた豊が希望したのは、仲間のマレー人に引き取られて回教寺院に葬られることだった。自らのアイデンティティの喪失に悩んでいた豊も、日本人の義務を果たした後は、マレー人として静かにやすみたかったのではないか。
 僅か31歳で生涯を終えた豊だが、マレー半島を取り巻く海の深い碧さに負けないくらい濃密な人生だった。

マレーの虎 ハリマオ伝説.jpg(中野不二男著/新潮社)

ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実

新証言によって明らかになった豊の行動。
ハリマオに、義経に似た心情を寄せる人たち

新しい証言者による新事実を知る

 すでにハリマオを知る多くの人物が死んでいるため、『マレーの虎 ハリマオ伝説』を著した中野不二男氏の取材の後で、さらに新しい事実を発見することができるのだろうか。これが、本書『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』を読む前の大きな疑問だった。
 ところが山本節氏は、私の疑問を見事に覆してくれた。丹念に探せば、証言者はいるものだ。本書によって数多くの新証言が集められ、新事実を知ることができた。何よりもタイのバンプーでの生活、そして軍部に協力してタイからマレーシア国境まで谷豊と行動を共にしたチェ・カデ氏の聞き書きを読むと、まるで目の前にハリマオがいるように、一人の肉体をもった男としていきいきと躍動するのだった。
 さらに本書によって、行方不明になってから死ぬまでの谷豊の行動ルートや具体的な内容がかなりの程度、明らかになったのは、大きな収穫であった。

マレーの女性に好かれた豊は、3人の女性と結婚

 『マレーの虎 ハリマオ伝説』で、実弟の谷茂樹氏が、「兄は、一生、女性ば、知らんと死んだじゃなあなかと」と発言していたが、それは間違いであったばかりでなく、何と3度も結婚していた。背は低かったが、色白でハンサム、そして負けん気が強くて気前の良い豊は、マレーの女性たちに好かれた。一時は、2度目の妻と3度目の妻と同居までしていたのだから驚く。
 また、日本軍の上陸に備えて兵站基地へと食料等を運んでいたこと。さらに発電所の爆破阻止に成功したほか、通信網の切断等にも活躍していたことを知ることが出来て、なぜか自分のことのように嬉しかった。しかも、マラリアに罹患した体でありながら、最後まで諦めずに、行動を続けたことに藤原機関の人たちにも大きな感動を与えていたことも嬉しい事実だった。

ジャングルを進むことの困難と恐怖

 谷の行動ルートと、今年の私の縦断旅行とで、交錯した場所がいくつかあった。北から触れていくと、イポー、キャメロンハイランド、スンカイ、クアラルンプールなどだ。標高1800mの高地にあるキャメロンハイランドには、病の体を数人のマレー人たちに担がれて登っていったという。
 マレーシアのジャングルの底知れない深みと恐怖を、日本兵の手記が示している。少しだけ紹介しよう。

 「胸まで沈む大湿地のジャングルを切り開きながら前進する速度は、一日僅かに二千米が山々であった。胸から上は縦横に生え茂った蔦や葛に絡まれ、足腰には無数の大蛭が吸い着き、人を恐れない毒蛇は至るところに鎌首をもたげて襲いかかる。晝は風が全く通らない焦熱の地獄であり、夜は濡れた身体に急激な冷気を覚える。泥沼に深くめり込んだ両脚は、ともすれば皮膚の感覚さへ失はれさうである。ジャングルの夜は鬼気迫る静寂であった。
 疲れ切って、深い睡りに落ちようとする戦友を互に励ます声にも力がない。苦しい夜が開けると一歩、一歩、血の滲むやうな跋渉と伐開が続く。激しい空腹を感ずるが飯を炊くことは出来ない。生米を一粒づつ噛みしめながら、敵陣の背後に迫ってゆくのである(原文ママ)」(第二十五軍辻政信中佐参謀の書『シンガポールー運命の転機ー』より)

動機は、アイデンティティの危機からではなかった

 『マレーの虎 ハリマオ伝説』で豊のアイデンティティに対する危機について触れたが、本書を読むとそれほど深刻に悩んでいたとは思えない。徴兵検査に落ちたからといって落ち込んだ様子もなかったし、当時の若者の気分としては、できるなら戦争なんかに行きたくなかった。そんな証言もあり、何だかほっとする。
 では、なぜ軍部に協力するようになったのか。たぶん、藤原機関が信頼する人物から見込まれ、頼まれたからであり、母親のため、そして日本のために引き受けたのだ。そして命をかけて協力した。そして死ぬときは、やはりマレー人として、イスラム教徒として死んだのである。

ラマリアに罹りながら戦い抜いた豊に多くの人が感涙

 死後に「ハリマオ神話」が生まれたわけだが、単に軍による宣伝によって皆が喝采したわけでなく、豊の行動に、やはり日本人の血を騒がせる要素があったのだ。それは才能がありながら、兄に疎まれ、国内を点々としながら、非業の死を遂げた源義経に寄せる似た感情かもしれない。豊もまた、マラリアに罹患した体を引きずりながら、遠い熱帯のマレーシアのジャングルを縦断し闘い続け、最後に息をひきとった姿に、多くの人が感涙したであろう。

ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実.jpg(山本節著/大修館)