ソーシャル・ネットワーク
「フェイスブック」誕生までをリアルに描く。
今の時代を知る上で欠かすことのできない作品。
★★★★★
世界最大のソーシャルネットワーキングサイト「フェイスブック」創設者マーク・ザッカーバーグのフェイスブック誕生に至るまでの話を映画化したもの。
2003年、ハーバード大学に通う19歳のマークは、親友のエドゥアルドとともに学内の友人を増やすためのネットワーキング・サービスを開発する。そのサービスは瞬く間に他校でも評判となり、ファイル共有サイト「ナップスター」創設者のショーン・パーカーとの出会いを経て、社会現象を巻き起こすほどの巨大サイトへと急成長を遂げるのだ。
しかし最初のきっかけが、恋人だったエリカに「性格がサイテー」と言われて振られた腹いせに、ハーバード大学の女学生たちをランクづけするサイトを開発したというから面白い。不正アクセスして女性達の顔写真を集めてサイトをつくったところ、アクセス数が急激に飛躍的に増えだした。そこでマークは「知っている顔だから、みんな見るんだ」と気づくところから、フェイスブック誕生へと繋がっていく。
さらにハーバード大学以外の大学にサイトを広げたのも、ボストン大学の通っているエリカがサイトの存在を知らなかったためだ。まことに恋の力は恐ろしい。かつての恋人に自分の力を示したくて躍起になって開発に情熱を傾けたのだから。
マークの関係者として、最初のアイデアを出したウィンクルヴォス兄弟、共同創業者のエドゥアルド、そして事業としての飛躍のきっかけを作ったショーンの3人が登場してくるが、ショーンがいかにもIT時代の寵児然としていて面白い。「フェイスブック」の前にあった「ザ・」を取ったのも、ショーンの提案だった。
そのショーンにエドゥアルドが聞く。「僕は利益を出したいけど、マークは広告に反対だ。どう思う?」
ショーンは答える。「まだ今はよくないと思う。ザ・フェイスブックはクールだ。広告はクールじゃない。パーティを11時でとめるのか? 成長の勢いを止めるべきじゃない。クールなのは100万ドル(1ドル80円で換算すると8000万円)。目標評価額は、10億ドル(800億円)だ」と。
このショーンの考えにマークは賛成し、エドゥアルドとの距離が開いていく。
結局、大成功を収めたマークに対して、ウィンクルヴォス兄弟と、エドゥアルドは裁判で訴え、映画は、フェイスブックの立ち上げから発展を描く過去と、訴訟シーンを描く現代が交互に展開されてゆく。
裁判の結果、ウィンクルヴォス兄弟との和解金額は6500万ドル(52億円。アイデアを出しだだけなのにね)、エドゥアルドとの和解金額は公表されていないが、かなりの額で妥結したものと思われる。
ちなみにフェイスブックは、207カ国、5億人が利用し、現在の時価総額は250億ドル(約2兆円)。そして、エンディングで流れる曲が、ビートルズの「ベイビー・ユー・アー・リッチマン」。実によくできている。
北アフリカで起きたチュニジア革命は、失業中の若者が出していた露天を警官に撤去され、抗議の焼身自殺をした映像が、フェイスブック等によって、人々に広くいきわたり、さらにデモの呼びかけにも利用されたことから始まり、結局、独裁者のベンアリ大統領が国外逃亡するに至った。携帯端末で使うフェイスブックが、革命の強力な武器になるという事実に驚くばかりだ。昔では考えられない現実が現出している。その意味でも、今の時代を知る上で欠かすことのできない作品かも知れない。
2011年1月公開/アメリカ/監督:デヴィッド・フィンチャー/出演;ジェシー・アイゼンバーグ、アンドリュー・ガーフィールド
ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い
オペラと、誕生の背景の両方を楽しめる贅沢。オペラファン、そしてモーツァルトファンは必見!
★★★★★
1787年に初演され、大成功したオペラ「ドン・ジョヴァンニ」が生まれるまでを、台本を書いた劇作家ロレンツォ・ダ・ポンテを中心にスートリーは展開する。天才モーツァルトは誰もが知っているが、ダ・ポンテは、ほとんど取り上げられることがなかっただけに貴重である。
1763年、ベネチアで暮らすユダヤ人少年エマヌエーレはキリスト教に改宗し、名前もロレンツォと改名する。やがて成長したロレンツォ(ロレンツォ・バルドゥッチ)は神父となるが、放蕩生活に明け暮れたために、ベネチアからの15年の追放を宣告される。彼は自由な気風あふれるウィーンに渡り、モーツァルト(リノ・グアンチャーレ)と出会う。
「フィガロの結婚」の成功に気をよくしたモーツアルトは、「ドン・ジョヴァンニ」の作曲に取りかかるものの、父親の死によってショックを受けて苦境に立たされる。それを巣食ったのは元神父だったダ・ポンテであり、モーツアルトに懺悔をさせ、2人で「ドン・ジョヴァンニ」完成させるのだった。
ちなみに「ドン・ジョヴァンニ」の序曲は、初演の前日に徹夜で書きあげられたもので、朝に写譜屋に草稿を渡したとか。コピー機がなかった時代は、写譜屋が活躍したみたいだ。それにしても前日に書き上げる方もスゴイが、すぐに演奏できる演奏家もスゴイ。プロってこんなものなんだろうか。
さてダ・ポンテについて一番興味深かったのは、彼を放蕩の道へと導き、思想的な影響も与えたジャコモ・カサノヴァの存在である。スペイン人のドン・ファンは伝説上の人物だが、イタリア人のカサノヴァはれっきとした実在の人物である。ダ・ポンテが描く「ドン・ジョヴァンニ」には、これまでの戯曲をもとにしながらも、カサノヴァの人物像も取り込んで台本をつくる。
カサノヴァが最後の場面について訊ねる。「せめて一度は愚かな地獄巡りをやめて天国に向かっては」「唯一の償いとして、最後まで地上の快楽の虜だった報いに魂を救ってやっては」。ダ・ポンテは答える。「いいえ、彼は責任を全うします。偽善者にならないと。貴方の予言ですよ。“永遠より現世の一瞬を”と」。この2人のやりとりが面白い。完成した「ドン・ジョヴァンニ」の初演にはカサノヴァも列席していたそうだ。
「ドン・ジョヴァンニ」の名曲の数々を聞けるだけでなく、物語誕生の背景まで描かれていて、2倍も3倍も楽しめる作品だった。
2009年製作、2010年公開/イタリア、スペイン/監督:カルロス・サウラ/出演:ロレンツォ・バルドゥッチ、リノ・グアンチャーレ
バーレスク
あくまでもアギレラの歌とダンスを楽しむ作品。
★★★
クリスチーナ・アギレラの魅力を堪能するための作品。ミュージック・ビデオに簡単なストーリーをつけたようなもの。複雑なストーリーは要らない。ひどい悪人もいないし、主人公がどん底に落ちたりもしない。でも、それでいい。メイン・ディッシュは、アギレラなのだから。
歌、ダンス、容姿ともに一流。ミュージカルの本場、ブロードウエイの国だけはある。エンターティナーの層が厚い。厳しい競争を勝ち抜いてスターになる人間は、輝きの度合いが違う。アギレラの歌声にしても、音域の広さと伸び、そしてブルースシンガー並の地響きが起きるような喉の絞り方など、ちょっと聞いただけで、身震いしそうな魅力が、確かにある。
そしてサブ・ディシュが、シェールということになる。ただ、このサブディッシュ、かなり渋くて重厚でしっかりと腹に溜まる。
一応、ストーリーを少しだけ紹介しておこう。
ロサンゼルスにあるラウンジ「バーレスク」を経営するテス(シェール)は、かつて有名なダンサーだったが、今は引退し後進の指導に当たっていた。そこにアイオワの田舎町から出てきた若い女性アリ(アギレラ)がやってくる。ウェイトレスとしてラウンジで働いていたアリだったがステージで歌声を披露すると、テスに認められ、その才能を開花させていく。
2010年/米国/監督:スティーブ・アンティン/出演:クリスチーナ・アギレラ、シェール
ロビン・フッド
中世封建制度に反旗を翻す男の活躍を描く歴史劇。
リドリー・スコットらしく、リアルで骨太の作品。
★★★★
12世紀末、十字軍を率いるリチャード王が戦死。兵士としてフランスでの戦闘に加わっていたロビンは、帰国途上のある日、イングランドの騎士ロバートの暗殺現場に遭遇する。瀕死のロバートからノッティンガムの領主である父ウォルターへの遺言を託されたロビンは、帰郷したのちノッティンガムの地を訪れる。遺言を届けに来たロビンにウォルターは、領地を没収されないよう亡き息子になりすますよう持ちかけるが……。
ご存知、中世英国の伝説上の義賊ロビン・フッドの闘いを描いた歴史活劇である。ロビン・フッドを扱った映画は、エロール・フリンや、ケビン・コスナーが主役を演じた作品や、ディズニーのアニメ版など数多く作られており、根強い人気がある。それは、ジョン王の暴政と不公平な法律、そして中世封建制度に反旗を翻す主人公の考えや颯爽と活躍する姿に、観る人々が共感を覚えるからなのだろう。
フランス軍と戦うため、ジョン王の元で共に戦い、勝利するロビンだが、ジョン王に妬まれて、盗賊として追われる身となり、そして誰もが知っている、シャーウッドの森に君臨するロビン・フッドになる。今回の作品は、その前段階の話。「ロビン・フッド ビギンズ」と呼べるものだ。
もともとロビン・フッドは吟遊詩人がたかり伝えてきた架空の話だが、リドリー・スコットは、よりリアリティを持たせるために、背景や衣装なども歴史的考証に基づいて懲りに凝って作っている。テンポも良く、2時間以上の作品だが、中弛みすることもなく最後まで楽しめた。全作品を観ているわけではないが、リドリー・スコットが手がけた作品に駄作なし、の感慨を強くした。
2010年/アメリカ/監督:リドリー・スコット/出演:ラッセル・クロウ、ケイト・ブランシェット、ウイリアム・ハート、マーク・ストロング
アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち
年齢を感じさせない演奏とタンゴへの愛。
リハーサル風景の味わいは絶品だ!
★★★★
アルゼンチンタンゴに関して詳しくはないが、好きである。あの特有の甘美な旋律を聴くと、とたんに平凡な風景が一変し怪しく官能的な色彩に彩られるのだった。楽器の中では、とくに演奏があまりに難しくて悪魔の楽器とも呼ばれるバンドネオンの郷愁を誘う音色が好きだ。
ともあれ、1940年代〜50年代、タンゴの黄金時代に活躍したタンゴの名手たちが、ブエノスアイレスのコロン劇場(ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座と並ぶ世界3大劇場の一つ)に一夜だけ集まり、衰えを知らない素晴らしい演奏を披露した。『アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち』は、演奏会に向けてのリハーサル風景と、当日の演奏会の模様を収めたドキュメンタリー作品である。
リハーサル風景が3分の2、本番が3分の1の割合だが、リハーサル風景が実に味わいがあっていい。マエストロたちは、全盛期の頃の思い出や、タンゴとの出会いや、タンゴへの想いを話し出す。そしてリハーサル音楽に合わせて過去のスナップ写真や風景が映し出される。
ある作曲家がいう。「自分が作った曲とは思えない。作曲したというよりも、舞い降りてきたようだった」と。
またあるマエストロは言う。「タンゴの素晴らしい演奏を聞いて、心の震えを感じなければ、よそへ行ってくれ」。
また、ある女性歌手は言う。「歌っている時、私はどこかに行っているの!」
他にも、「タンゴは3分間のドラマだ」
「タンゴは、演奏する者を幸せにする」
「タンゴは、人生そのものだ」
など、名台詞を随所に散りばめてくれるのだった。
見た感じは80歳がほとんどで、普段、どこにでもいるような普通のヨレヨレ老人だが、いったん楽器を持たせたり、歌わせたら、アイロンがかけられたシーツのように、背筋が伸び、表情が若返り、別人のような輝きを放つのだ。30歳以上は若く見える。しみじみと、しっかりとタンゴの力、音楽の力を思い知らせてくれる作品である。
2008年制作、2010年6月公開/アルゼンチン/監督:ミゲル・コアン/出演:オラシオ・サルガン、マリアーノ・モーレス、ホセ・リベルテーラ、レオポルド・フェデリコ、他
マチェーテ
グロだがユーモアもあり、着想も良い。
これぞB級アクション映画の面白しろさ
★★★★
メキシコの連邦捜査官のマチェーテ(ダニー・トレホ)は、マチェーテ(中南米の現地人が使う刀)を愛用して犯罪者を狩る凄腕の男だった。だが、その強い正義感ゆえに麻薬王トーレス(スティーヴン・セガール)と衝突し、妻娘を惨殺される。それから3年後、マチェーテはアメリカテキサス不法移民の日雇い労働者をしていた。ある日、マチェーテはブースという男から不法移民嫌いで知られるマクラフリン議員(ロバート・デ・ニーロ)の暗殺を依頼される。しかし、それはトーレスとマクラフリンが仕組んだ罠だった。暗殺犯として追われる身となったマチェーテは、彼らの陰謀を暴くために復讐を誓う。
いやあ、主役を務めたダニー・トレホの怪演ぶりが一番印象的だ。ブ男(映画の中でも、敵からそう呼ばれている)だが、存在感は圧倒的。少々、拳銃でうたれようが、刀で切られようが、すぐに回復して、敵を切り倒す。
首や手足が飛ぶ、飛ぶ。だが意外にグロテスク度は低く、笑ってしまうようなユーモアが救ってくれる。中南米の現地人が使う山刀のマチェーテはもちろん、病院で手に入れた多くのメスを輪にして武器にしたり、芝刈り機を武器にしたりする。
そして意外にもメキシコからの不法移民問題を背景に扱った脚本が良くできている。不法移民を取り締まることで、安い麻薬をアメリカに入り込ませず、高値安定を画策する麻薬王と、不法移民のお陰で経済を成り立たせているにもかかわらず、不当に彼らを取り締まるアメリカの体制への憎悪を募らせながら不法移民を助ける女を対立軸に、様々な立場の人物の思惑が交錯する様は、なかなか楽しい。
B級アクション映画ならではの面白さが、はち切れんばかりに詰まった作品だと思う。
2010年11月公開/アメリカ/監督:ロバート・ロドリゲス、イーサン・マニキス/出演:ダニー・トレホ、ジェシカ・アルバ、ロバート・デ・ニーロ、スチーブン・セガール、リンジー・ローハン
私の可愛い人シェリ
ココット(高級娼婦)が活躍できたフランスが羨ましい、
★★★
ベルエポックのパリ、1906年。芸術が花開き、女たちが魅力的だった美しき時代。短い期間だがココット(高級娼婦)たちが、美貌と、文化教養、更に経済の知識をもち、パリの社会の中で、最も輝くセレブであった時代でもある。そのココットの中でも絶世の美女、レア(ミシェル・ファイファー)は、“恋に落ちる危機”を何度も見事に切り抜けてきた名うての女。一方、レアの元同業のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)の一人息子シェリ(ルパート・フレンド)は、19歳で既に女遊びにも飽きているほどの“問題児”。母は磨きぬかれたレアの愛のレッスンで、息子をまっとうにし、更に金になる男にしたいという魂胆で、二人の仲を取り持つのだった。レアはいつものように数週間で別れるはずの恋だったのに、“不覚にも”6年も楽しく暮らしてしまった。やがて、年頃になったシェリの結婚話が持ち上がったとき、初めてレアはこの恋が一生に一度の愛だと気づく……。
原作は「青い麦」で有名なコレット。主人公のレアの職業がココット(高級娼婦)という設定が、いかにもフランスらしい。ココットは、知性、教養、美貌、性的魅力、ファッションセンス、手練手管、経営者感覚などのすべてにすぐれてないと成り立たない職業だ。日本の場合なら花魁が想い浮かぶが、立場や境遇は似て非なるものだ。花魁は教養はあっても、あくまでも吉原遊郭の高級遊女であり、自由などありはしない。一方、ココットは、自転車屋さんや八百屋さんと同じように独立自営業者である。ただ販売する商品が違うだけである。レアがいう。「私が稼げるのは、ベッドだけ」。職業意識の徹底ぶりが小気味いい。
この作品のポイントの一つは、レアの老いの問題がある。彼女は、若いシェリと愛し合う関係になるが、最後は、自分の老いを自覚し、シェリのために別れることを決意し、そしてある行動を実行に移す(これは映画を観ていただきたい)。マダム・プルーがレアに皮肉を言う。「肌に張りがなくなると、香水がよく染みこむのよ」。女性同士ならではの台詞である。ミシェル・ファイファーが、老いを実感するレア役にちょうどいい具合に当てはまっていた。
全体の通して華やかなベルエポック時代を再現した衣装は十分楽しめるし、音楽もよかった。だが、なぜか少しもの足りない。
ちなみに、レアを含めて数人が阿片窟で阿片やコカインを吸う場面が出てくる。シャーロック・ホームズも阿片愛用者だった。ヨーロッパにおける阿片普及の問題も一度調べてみよう。
2010年10月公開/イギリス、フランス、ドイツ/監督:スティーブン・フリアーズ/出演:ミシェル・ファイファー、ルパート・フレンド、キャシー・ベイツ
闇の列車、光の旅
乾いた中南米の風景を走る列車、
命がけの旅を続ける2人の眼差しがいい。
★★★★
メキシコの青年カスペルは、地元のギャング団の一員だが、組織には内緒に可愛い娘ともつきあっている。その恋人がリーダーに殺されたのに何もできない自分に腹を立てる。
一方娘ホンジュラスの娘サイラは、叔父さんから一緒にアメリカから強制送還された父親と3人でアメリカに移民しようと誘われる。「ここにいても、何もいいことはない」と。そして3人は列車の屋根へ。
その途中、リーダー、カスペル、子供のような弟分スマイリーの3人による列車強盗に会う。さらにサイラを暴行しようとしたリーダーをカスペルは殺して逃亡を図ることなる。
この事件をきっかけに、サイラはカスペルに接近し、一緒に逃げようとする。だがその結末は? それは言わないことにする。
この若者2人の眼差しがいい。絶望や不安の中にありながら、意志力を感じさせる眼差しがいい。かすかな希望の光を追い求める遠い未来へ向ける眼差しがいい。そして亡命者たちを屋根にのせて走る列車がいい。ロードムービーに実に似合う。走る列車の背景に立ち現れる中南米の乾いた風景がいい。
ちょっと待てよ。ホンジュラスってどこにあったっけ。中南米にあることは確かだけど、正確な位置が分からない。グアテマラ、メキシコ、そしてアメリカへ北進して移民を企てる訳だから、メキシコの南側に位置することになる。調べると、世界の最貧国の一つらしい。叔父さんがサイラに話した言葉も、現実味と説得力を帯びてくる。
最後に、サイラが下着姿になって、タイヤにしがみついて国境の川を渡るシーンがリアルだ。この川を越えた先に、確かな希望があればいいのだが。
フローズン・リバー
凍てついた風景と境遇の中で始める違法ビジネス。過酷な現実を描きながら、小さな希望を与える秀作
★★★★
ニューヨーク州とカナダの国境にある川を舞台に、多額の報酬と引き換えに、不法入国者を手助けする白人女性とモホーク族女性の運命を描くドラマである。
ニューヨーク州の最北部で、夫と息子2人とトレーラーハウスで暮らすレイ(メリッサ・レオ)は、もっと広い家を購入するための貯金を夫に持ち逃げされ、パニックに陥る。支払期日のクリスマスまでにお金を稼ぐべく、レイはモホーク族インディアンの女、ライラ(ミスティ・アップハム)と手を結ぶ。
つまり、主人公は、ギャンブル好きの夫に失踪され、本人は1ドルショップで契約社員として働き、2人の子どもを持つ女性であり、貧困との戦いが強いられる。しかしアメリカの女は強い。違法ビジネスをしてでも資金を稼ごうという根性にまず目を見張る。そしてライラ役をやった役者の諦念にも通じる無表情さは、演技とは思えないほど自然だ。
さて2人が始めたビジネスとは、中国やパキスタンからの移民をカナダ側で車のトランクに乗せ、冬の寒さで凍りついたセント・ローレンス川を駆け抜け、アメリカへ不法入国させるというものだ。作品のタイトルにもなっている通り、ここのシーンが印象的である。風景も彼女たちの心も凍てついている。
ハラハラしながらも、ビジネスは順調にすすみ、レイが新居を買うために必要なお金はすぐに溜まりそうな勢いだった。だが、最後と誓った国境越えの仕事で、事態は最悪な方向に転ぶ…。
最初は利害関係だけで結びついていた女性2人が、子どもをもつ母親同士ということで互いに少しずつ理解を深めていく。そして最後、凍てついた心に熱い何かが流れる。
この作品は実話を元にしている。だから、とてもリアルでドキュメンタリー映画のような味わいがある。貧困や崩壊した家庭など、過酷な現実を映しながらも、小さな希望と勇気を与える秀作である。
2010年1月公開/アメリカ/コートニー・ハント監督/出演:メリッサ・レオ、ミスティ・アップハムほか
オーケストラ
笑わせながら音楽の力を感じさせる作品。
ソ連のユダヤ人政策を知る機会にも‥。
★★★☆
かつてボリショイ交響楽団の天才指揮者だったアンドレ(アレクセイ・グシュコフ)は、今はさえない劇場清掃員として働いていた。ある日、出演できなくなった楽団の代わりのオーケストラを探しているというFAXを目にした彼は、とんでもないことを思いつく。それは、いまや落ちぶれてしまったかつての仲間を集めて楽団を結成し、コンサートに出場するというものだった(続きは、映画でどうぞ)。
ひょっとして実話を元にして描かれたのではと思ったりしたが、普通ではあり得ないなことばかりが続く。例えば、最初のシチュエーションはもちろん、30年間ブランクのある音楽家たちや、「私、チャイコフスキーを演奏したことがない」と告白するバイオリン・ソリストのアンヌ=マリー・ジャケ(メラニー・ロラン)が、チャイコフスキーの「バイオリン協奏曲」を演奏して、いきなり聴衆を感動させる演奏ができるわけがないし、この他にも、ありえないエピソードが満載だ。だが、すべてコメディとして笑い飛ばしながら、音楽の素晴らしさを楽しむ映画だと思えばいい。
この映画を観ていて、気になったことが一つあった。主人公のアンドレが天才指揮者として、名声の絶頂期に解雇されたのが、共産主義時代、“ユダヤ主義者と人民の敵”と称されたユダヤ系の演奏家たち全員の排斥を拒絶したからという点だ。結局、彼らは全員解雇され、収容所で死んだバイオリニストのレナと、マリー・ジャケとの関係が、この映画の大きなテーマの一つでもあるのだが‥。
メンバーの中で、商売に熱中するユダヤ人親子や、巧みなバイオリンを披露したり、偽造パスポートを作成するロマ(ジプシー)など、当時排斥されたマイノリティーの人々の姿が生き生きと描かれているが、彼らこそ、当時、排斥の対象になった人々だ。
「30年前、ブレジネフによって追放された」とアンドレが語る。そこで、ソ連とユダヤ人との関係を調べてみると意外なことが分かった(誰も知っていることかもしれないが‥)。
ソ連の10月革命が成功し、ロシア主要部はボルシェビキの手に落ちた。1918年、レーニンはペテログラードにおいてソ連政府の閣僚19人を指名したわけだが、このうちなんと14名がユダヤ人だった(別表参照)。つまり、ロシア革命は、ユダヤ人たちが中心になって成功させたものだともいえる。
ところが第2次大戦後、スターリンの独裁政権以後、ユダヤ人は排斥され、差別される対象となった。ブレジネフの時代は、米ソの冷戦が続いていた時代であり、やはりユダヤ人は排斥された。この映画には、ソ連におけるユダヤ人問題が背景として織り込まれている。
ちなみにラデュ・ミヘイレアニュ監督自身、80年に共産党政権下のルーマニアから亡命したユダヤ系らしい。そんな点もこの映画を通じて訴えたかった一つかも知れない。
ソ連政府閣僚名簿。赤字がユダヤ人
扉をたたく人
異文化と他人に心を開く人間の有様が美しい
★★★★
欲張り過ぎずにテーマを絞って淡々と描く様は、クリント・イーストウッドの作品に近い。そのテーマとは、異文化理解であり、さらに正確にいえば、異文化をバックグランドに生きる人間に対する理解のことである。
ピアニストの妻に先立たれて以来、心を閉じた生活を送っていた大学教授ウォルター(リチャード・ジェンキンス)は、ニューヨークの自分のアパートに、騙されて住んでいたシリア人の男性ミュージシャン、タレクと、セネガル人の女性、ゼイナブのカップルと知り合った。アパートを出て行く彼らを気の毒に思い、一緒に生活を始めることになった大学教授は、男性からパーカションを教えてもらい、徐々に心を開き、親密度を深めていった。
ところが地下鉄で男性が間違って強引に拘束された。8.11以降、右傾化したアメリカはイスラムの人たちへの弾圧を強めていった。そんな時代背景のもとに逮捕されたのだった。息子タレクに会うために出てきた母親と暮らすようになった大学教授は、自らの費用で弁護士を雇い、釈放に尽力するが、結局、不法滞在のために強制送還された。母親もまた息子のためにシリアに帰国する。
一人の人生を簡単にずたずたにして平気なアメリカに対して怒りのやり場のない大学教授は、地下鉄で、一人パーカッションを叩くのだった。
ちなみに、このパーカッションは「ジャンベ」というものらしい。タレクが「西洋音楽は4拍子だけど、アフリカ音楽は3拍子なんだ」と説明し、ターン、タッ、タッと説明する。最初は、心もとなかった大学教授も、楽器の楽しさとタレクの優しい性格を知り、異文化と他人に心を開いていった。この辺りが、この映画の肝なんだろうな。
ハングオーバー
推理の楽しみもある過激なオバカムービー
★★★★
「結婚式を2日後に控えたダグは、親友である教師のフィルと歯科医のスチュアート(スチュ)、そして婚約者の弟のアランと共にラスベガスで独身最後のパーティーを開いた。だが翌朝、酔いつぶれていたフィル達が目を覚ますとダグは消えており、スチュは歯が一本抜け、トイレに虎が出現し、クローゼットには赤ん坊がいるという意味不明な状況に陥っていた。どうしてこうなったのか、そしてダグはどこへ行ったのか、彼らは二日酔いの頭で必死に思い出そうとする」
最初の出だしは、めんどうだからウィキペディアをコピペしてしまった。
このようにフツーなら到底ありえないシチュエーションから話が始まり、すぐにエンジン全開。テンポ良く話が展開する。オバカムービーなのだが、とてもよく練れられたシナリオが、見終わった後、心地よい満足感を与えてくれる。マイク・タイソンが本人役で登場するのも一興。
この映画、大物俳優も出ていないし(知っているのは、へザー・グラハムくらい)、低予算でつくられたにも関わらず、全米で2009年度の興行収入6位に輝いた。続編の制作も決まっているとか。映画は予算より、まずシナリオだ。
脳内ニューヨーク
神経症の演劇家の、あまりに病的な劇中劇
★★★
久々に歯ごたえのある、難解な映画にぶち当たってしまったという感じだ。
奥さんから別れ話を持ちかけられ、レズの女と娘をつれてベルリンに去ってしまった主人公ケイデンの孤独と不安の様子が描かれる。
彼は演出家なので、自分の揺れ動く気持ちをそのまま等身大に演劇空間に反映させるという、これまで誰もなしえなかった壮大かつ挑戦的な演劇に挑戦する。それは死ぬまで何十年に及ぶ演劇だった。本人はもとより、実人生で出会う人物もすべて分身が出てきて、実人生をなぞるように演技をする。
この作品を観る者にとって、素朴な疑問は、「なぜこんな演劇をする必要があるのだろうか」ということだ。
これが、孤独を癒やすためなのか、真の愛を見つけるためなのか、失われた家族関係を回復させるためなのか、あるいは演劇賞を取るためためなのか、純粋に演劇の革新をめざしてのものなのか。
疑問符だらけなのだが、主人公役のフィリップ・シーモア・ホフマンをはじめ、役者はみんな上手い。惹きつけられる魅力がある。だから、疑問符のまま、最後まで見続けられたのかもしれない。
カティンの森
カティンの森で虐殺された将校たちとその家族の姿を透徹に描く
★★★★
ポーランドの巨匠、アンジェイ・ワイダ監督の作品。第二次大戦中、ポーランドの将校2万人以上がソ連軍によってカティンの森で虐殺された事件を扱っている。
この事件を理解するには、以下のような簡単な歴史を知る必要がある。
第二次大戦が勃発した1939年(昭和14年)、秘密裏に独ソ不可侵条約が結ばれ、ポーランドは、ドイツとソ連に分割占領されることになった。
1943年(昭和18年)4月、不可侵条約を破ってソ連領に侵攻したドイツ軍が、元ソ連領のカティンの森の近くで、2万人以上のポーランド将校の死体を発見した。ドイツは、これを1940年(昭和15年)のソ連軍の犯行であることを大々的に報じた。
その後ドイツが敗北し、大戦が終結した1945年(昭和20年)以後、ポーランドはソ連の衛星国として復興の道を歩み始めた。そしてソ連はカティンの森事件をドイツ軍の仕業であると反論し、事件の真相に触れることはタブーとなった。
ここに、政治の卑劣さ、大国のエゴ、戦争の冷酷さといったことを思い知る。
ところが、ある将校アンジェイ大尉が手帳に書きつけた克明なメモから、将校たちの虐殺に至る様子がリアルに映画で再現されることになった。この冷酷なシーンは、まるで家畜を殺すようにあまりに簡単に殺される場面が続くことで、かえって恐怖が増幅される。
また、将校たちの運命とともに、彼らの帰還を待ち望む将校たちの家族たちの姿。さらには、真実を口に出したくても、支配下のソ連の圧力でそれができない人たちの苦しい姿を描いていく。
実は、アンジェイ・ワイダの父親がこの虐殺されたポーランド将校の一人だった。この映画は、彼にとって、父親のため、そしてポーランドのために絶対に描かざるを得ない使命を帯びていたのである。
それでも恋するバルセロナ
軽快なテンポで進む小粋な恋愛映画。
ラテン民族ならではのくどき文句が印象的。
★★★★
ウッディ・アレン監督作品。音楽、役者、舞台のすべて美しく、恋愛ストーリーは軽快なテンポで進んでいく小粋な作品。とくに舞台がバルセロナである点がいい。ガウディのサクラダ・ファリア、グエル公園、ミロの美術館をはじめ、心を浮き浮きさせてくれる。
いい男といい女がもちろん登場するわけだが、中でも、赤シャツを着た画家として現れたハビエル・バルデムがいかしている。実は、彼が、「ノーカントリー」の殺し屋役をやっていたことを後で知って驚く。役によってこれほど印象が変わるとはね。おい、座布団1枚、やっておくれ。
この映画で一番印象だったのは、男が女性を誘うくどき台詞だ。
「2人をオビエドに招待したい。食事とワインと楽しみ、セックスもする」
女性の一人が、その言葉に対して怒る。すると彼が答える。
「人生は短くて、退屈で、苦悩ばかりだ。だからこれは特別チャンスなんだ」
愛に生きるラテン民族ならではの台詞というべきか。日本人も少しばかり見習った方がいい。
キャデラックレコード
黒人音楽史を知る上で貴重。音楽も堪能できる
★★★★
ポーランド系移民のレナード・チェスによって、1947年に設立されたシカゴのブルースレーベル「チェス・レコード」をモデルにした伝記・音楽映画。
ブルースを商業ベースに載せた功績は大きい。レコードが売れたギャラのかわりにキャデラックを買い与えたところから、映画のタイトルが生まれたのだろう。
マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、ハウリング・ウルフ、チャック・ベリー、エタ・ジェイムズなどが、どんどん出てくる。歌う。それだけでもいい。そのうえ、ハウリング・ウルフが、黒人であることの誇りをもつモラリストだったことなど、それぞれの性格の違いなんかもわかってしまう。
チャック・ベリーが開発したロックンロールを、白人のプレスリーが歌うことで、チェスレコードの歌手たちの人気は下火になる。しかし、ブルースの影響を受けたローリング・ストーンズのおかげで、英国やヨーロッパで人気が再熱。マディ・ウォーターズは、ロンドンのヒースロー空港に降り立つところで、この映画は終わる。アメリカの黒人音楽史を知る上で貴重な映画だ。
カールじいさんの空飛ぶ家
テーブルマウンテンの世界がリアルで素晴らしい
★★★★
冒険好きの少年と少女が出会い、結婚するが、冒険のための資金をためる事ができないまま年老い、妻は死んでしまう。
一人になったカールじいさんは、妻との楽しかった思い出に浸りながら暮らすが、やがて立ち退きの命令を受け、家を訪ねてきた少年も一緒に、家に多くの風船をつけて空を飛ぶ。行き先は、妻と一緒に行きたかった南アメリカの高地で、世界一の高さをほこる滝の側だ。
そこで出会ったのが、小さい頃に憧れていた有名な冒険家だった。だがその冒険家は、偏執狂と化していて、高地に住む鳥を生け捕りしようとしていていた。カールじいさんは彼と闘い、冒険家は墜落して死んでしまう。
再び地上に戻ったカールじいさんは、少年や高地であった犬たちと触れあいながら人生を楽しむのだった。
以上が、簡単な粗筋であり、良くできたファンタジー映画だ。家が空を飛ぶというアイデアもなかなかいいが、一番関心したのが、高地での描写。
ここは明らかにギアナ高地であり、滝は、エンジェル・フォールだ。高地の様子が実にリアルで不思議な魅力に富んでいる。
特典映像でわかったのだが、やはり舞台はギアナ高地のテーブルマウンテンであり、スタッフたちは、実際にテーブルマウンテンに登り、風景をスケッチしていた。だからリアルに感じたのだろう。
また、素敵な思い出をもつ人間は豊かな時間を過ごすことができることを彷彿とさせる場面も良かったと思う。
一つだけ違和感を感じたのは、少年の頃の英雄だった冒険家が、少年が爺さんになっても、カールじいさんと同じような年齢だったことだ。きっとアンチエイジングの薬でも飲んでいたのだろう。
ザ・レスラー
ミッキー・ローク以外に、この役はやれない!
★★★★
ハリウッド映画を観て感心することの一つが、俳優の役づくりのための驚くべき努力であり、それを可能にする才能だ。
例えば、伝説的なミュージシャンを主人公にした映画では、本物に匹敵するほど魅力的に歌いこなしてしまう。「Ray レイ」のジェイミー・フォックス然り、「ビヨンド・ザ・シー」のケビン・スペイシー然りである。
そして今回は、レスラーである。だが、さすがにハリウッドの役者でも、これはきついはずだ。そのレスラー役を、全盛期を過ぎた哀愁漂うレスラー役をミッキー・ロークが演じた。猫パンチで世間の笑い者になり、長い間、引退同然の生活をおくっていたミッキー・ロークの人生と重ね合わせてしまうほど、ぴたりと重なっていた。彼以外には、この役はやれないだろう。
見終わった後、ずしりと、腹の中に入った異物が消化しきれないような重さを感じながら、しばらく考え込んでしまった。
プロレスラーたちの仕事は過酷だ。痛み止めのモルヒネを打ちながら、従業先を転戦する。心臓への負担もかかり、寿命は短い。それでもなお、彼らはリングに登る。なぜだろう。誇りのためか。他に仕事がないからか。リングの上にしかない快楽があるからか。
僕は、昔、プロレス専門誌「週刊ファイト」の編集長から、うちで仕事をしないか、と誘われたことがある。当時、結婚したてのときで、週刊ファイトの記者になったら、プロレス興業に合わせて全国を回らなければならない。それも面白いなと思いながらも、やはり断った。もし、このとき、申し出を受け入れてプロレス記者になっていたら、上記の疑問も解消できていただろう。
ビヨンド・ザ・マット
プロレスラーという道を選んだ男たちの
哀愁漂うドキュメント映画
★★★★
ミッキー・ロークの怪演で、アカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた「レスラー」を観とき、これは、「ビヨンド・ザ・マット」を下敷きにした映画ではないかと思った。それほど、よく似ている。
「ビヨンド・ザ・マット」は、アメリカのプロレス業界で活躍するプロレスラーを扱ったドキュメンタリーだが、これまでタブーとされていた部分まであからさまにしながらも、プロレスを愛してやまない男たちの生き様が哀愁を帯びて美しい。
登場人物は、次のような連中だ。WWFを率いるビンス・マクマホン、プロレス界の生きた伝説、53歳当時のテリー・ファンク・ジュニア、WWFのレスラー、マン・カインド。そして、残忍なプロレススタイルで一世を風靡したジェイク・スネーク・ロバーツ(以下、ジェイク)などだ。
この中で最も印象的だったのは、マン・カインドと、ジェイク・スネーク・ロバーツだ。両者とも優れたレスラーだが、私生活は正反対だった。家庭を大切にするマン・カインドと、家庭を顧みないジェイク。
マン・カインドは、激しい試合ぶりとは逆に、素顔は学級委員長のような真面目でユーモア感覚に溢れた性格で、奥さんは美人、2人の子どもたちも可愛い。プロレスファンで、小さい頃からまねごととしていた彼がプロレスラーを目指したのは14歳のときだ。人より痛みに強いという彼は、「金を貯めて。35、36歳で引退をして、子どもと過ごしたい」と、人生設計を描くときも沈着冷静だ。
一方のジェイクは、1冊の小説が描けるくらいすさまじい人生を送ってきた。「お袋は、13歳でレイプされて、俺が生まれた。親父はレスラーだった。父親の愛情に飢えて育った。妹は殺された。不幸の連続だよ」
自身は7回結婚し、娘とも離れて暮らしている。家庭的な環境に育っていないから、娘とどう接していいのか分からない。
ジェイクに限らず、ほとんどのレスラーが薬づけだ。試合があるたびに、痛み止め、コカイン、睡眠薬などを使用するため、体がボロボロになってしまうのだ。ジェイクはいう。「ヤク中は、みんな不幸だ」。また、試合のために全米各地を旅するために、家庭を顧みることができずに、家庭崩壊を招いていることが多い。
その彼も、リングの上ではイキイキとしている。「リングの上は最高さ」と彼はいう。「観客の感情を自分の思ったとおりにコントロールできる。その快感が忘れられないんだ」と。過酷な環境にありながら、なぜプロレスラーを続けるのか。これこそ僕が長年、知りたかったことなのだが、その答えがジェイクの台詞の中にあった。
ジェイクと、「レスラー」で演じたミッキー・ロークの姿が重なって見えた。彼もまた、誇りをもてない平凡な暮らしを棄て、リスキーだが誇りを持って戦える四角いリングで主役としてスポットライトの当たる世界を選択した。結末は、たぶん、一般の人よりも早すぎる死しか待ってないとしても、突き進むしか仕方なかったのだ。彼らは、例え短くても、大歓声を浴びながら妖しく輝くことができる人生を選んだのだ。