書物の森

ルポ 貧困大国アメリカ
ルポ 貧困大国アメリカⅡ

衝撃の書。やはりアメリカはクレイジーだった!

  最初の「ルポ 貧困大国アメリカ」が出版されたとき、新聞や週刊誌でも紹介されていたので興味は抱いていた。医療問題の矛盾や、イラク戦争の前線に貧困層の若者が駆り出されているなどについては、これまでに他の情報で知っていていたので、さほど目新しいことは書かれていないであろうと、パスしていた。
 そして今回、「Ⅱ」が出たので、少し立ち見読みしたところ、驚いた。大学生の教育ローンの実態、さらには、刑務所まで民営化され、それが巨大なビジネスになっている。それで、「Ⅰ」「Ⅱ」をまとめて買い、一気に読んだ。

 読んでいる最中、つねに息が詰まるような感覚を覚えた。本書に登場するごく普通の市民がいま陥っている借金地獄の実態が解明されるにつれ、彼らに対する深い同情と同時に、こうした状況を招いて平然としている企業幹部と政治家への怒りは、どこにぶつけたらいいのだろうか。「アメリカは、クレイジーだ!」と何度、心の中で叫んだことだろうか。

 いうまでもなく、日本の戦後民主主義は、アメリカからもたらされたものだ。また、ジャズもプレスリーも、チューインガムも、アイビールックも、物わかりいいパパも、肉や野菜や牛乳が溢れように詰まった大型冷蔵庫も、みんなアメリカからもたらされた。
 日本中が貧乏だった戦後、僕たちは、アメリカを理想モデルに、追いつき、追い越そうと必死に頑張ったのだ。そんな理想モデルだったアメリカから、僕の気持ちは、かなり以前から遠ざかっていた。
 アメリカの風景をみても、寒々とした心象風景か見いだせなくなっていたのだ。資本原理主義と、弱肉強食が堂々とまかり通る国に共感することなどできない。例えば、アメリカの医療制度をみても、あれが国民を幸せにする制度かどうか、ちょっと脳みそがあればわかるはずだ。「政府による皆保険制度は、社会主義だ」と反対する業界団体の連中はいうが、それならアメリカ以外の先進国は、みんな社会主義の国になってしまう。

 書いていても、怒りで興奮している自分がいることがわかる。少しクールダウンさせよう。
 堤女史のジャナーリスト魂が小気味いい。焦点が絞れていて、信憑性の高い統計と、政治家、医者、退役軍人、大学関係者など豊富な取材を通して、アメリカの現状をリアルにレポートしてくれる。知らなかった事実があまりに多かったので、何度か読み返しながら自分でも調べてみようと思う。そして自分なりに発言していきたいと思う。かつて憧れたことのあるアメリカに対して。それは昔の恋人に宛てた、告発状を装った恋文となるはずだ。


貧困大国アメリカ.jpg

貧困大国アメリカⅡ.jpg(堤未果著/岩波新書)

図説 満州帝国

幻影帝国・満州の正体とは?

北進への欲望を募らせた国家的病

 満州帝国。それにしても、なかなか複雑な感慨を抱かせる響きだ。
 歴史上に、わずか13年間だけ存在した満州帝国。一応、独立国の形をとっているが、実質的には日本の植民地であった。狭い島国で、資源の乏しい日本にとっては、石炭等の豊富な資源を含んだ広大な満州へと向かう北進への欲望は、ロシアが無凍結港を求めて、つねに南進しようとする業を抱えているのと同じような国家的病気かも知れない。

満州各地に砂上の楼閣を築く

 他のアジア諸国のように、欧米列強によって植民地化されないように、明治以降、富国強兵への道を歩んだ日本は、逆に、日清戦争、日露戦争、さらに傀儡の満州帝国をつくることで、朝鮮、台湾、南樺太、そして満州を植民地化してしまい、アジアで唯一の植民地をもつ帝国主義国家となってしまった。そしてこのことに当時の多くの日本人は一時、酔いしれ、熱狂した。「狭い日本にゃ住み飽きた」とばかりに満州で大陸浪人として暴れ回るのがカッコいいように思われ時期もあったのだ。まるで、ローマ帝国の勢力図拡大図のように感じたのではあるまいか。
 満州を牛耳った日本は、大連、奉天(現・瀋陽)、新京(現・長春)各都市で広々とした道路を放射状に配した計画的な都市計画を急ピッチで進めていった。この本に掲載されている写真をみても、砂上の楼閣のような不思議な感覚を抱かせる都市である。

美名で行われる戦争に気をつけろ!

 戦争に関する本を読み進めて気づいたことがある。それは、いつも「戦争は、美名によって引き起こされる」ということだ。この美名に多くの国民は騙されるのだ。戦争は、「さあ、人を殺しにいくぞ」、「植民地の連中を搾取し、自分たちはいい思いをしよう」なんてことは表立っては言わない。すべて「平和のため」「正義のために」という美名で戦争は行われていた。満州帝国における「王道楽土」(王道とは、専制君主は、正義、慈愛、寛容さをもって統治すべきだとする中国小台の政治哲学)、「五族協和」(五族とは、漢民族、満州民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族のこと)といったスローガンも、内実は、日本にとって都合のいいもので、支配されるものにとっては抑圧があるばかりであった。
 現代もまた、こうした危険性はつねに内在している。「美名で行われる戦争に気をつけろ!」ということだ。

満州帝国.jpg(太平洋戦争研究会編/河出書房新社)


図説 太平洋戦争

「無謀」な戦争が引き起こした「無惨」

死んだ兵士たちの無念さは、さぞや…

 「無惨」としかいいようがない。戦地に横たわる無数の兵士たちの屍の写真を何枚も見ながら、太平洋戦争の比較的克明な記録を辿っていくと、心の中に去来する言葉は「無惨」の2文字であった。
 1941年12月8日、真珠湾攻撃によって始めた太平洋戦争だが、日本が戦争に勝ち続けたのは、わずか1年足らずで、その後の3年半は、勝つ見込みのない絶望的な戦いの連続だった。それも、すぐに白旗を掲げて捕虜になるのならともかく、全滅に近い負け方であり、さらには飢餓やマラリアなどの病死、自害などによる死も多かったというから、あまりに酷い死に方という他ない。
 中でもインパール作戦のように、現場の指揮官が反対するほど無謀な作戦を、「進め」の一点張りで強行し、インドシナのジャングルの中で9割以上の兵士を死に至らしめた司令官は、死罪に値するのは当然であり、死んだ兵士はさぞや無念だっただろう。これに似た例は、他にもいくらでもある。

一億玉砕を強いる軍人たち

 軍人が権力を握ったときの怖さを改めて思い知った感じがする。彼らは、日本が焦土となり、最後の1兵卒になるまで戦い抜こうという発想なのだから恐ろしい。「生きて捕虜の辱めをうけるより、潔く自害しよう」という武士道的な発想を、兵士はもちろん全国民にまで強いたことが災いとなり、多大な犠牲に繋がった。
 適当なところで白旗を揚げていればよかったのだ。ポツダム宣言がなされたとき、参謀本部は受託しようとしていたが、軍人たちの強硬な反対によって受託がおくれ、それが広島と長崎の原爆に繋がった。
 天皇の終戦の玉音放送のときも、軍部はクーデターによって天皇を隔離し、徹底抗戦をしようとしていたのだから、呆れてしまう。

アジア解放ではなく、石油資源を狙ったものだった

 この本で一つ認識を改たにしたことがある。それは、欧米列強に虐げられている東南アジアの人々を日本軍が解放するための戦いである、という主張である。実際にそう願っていた日本人も多いし、東南アジアの人々も最初は熱狂して日本軍を迎えた国もあったそうだ。だが日本の狙いは、総力戦に勝つためには、何としてもインドネシアの石油が必要だった。そのために周囲の国々も列強から奪わねばならなかったのが真相であり、あくまでも日本の利害によるものであった。欧米列強を追い払ったあとは日本は支配者として君臨したのだった。
 インドネシア、ビルマ(現・ミャンマー)の独立軍と連帯して戦ったのは、自軍の兵士が足りず、それを補強するための戦略であった。もし本当にアジア諸国の開放のために戦ったのであれば、いまきっと誇らしい気持ちで東南アジア諸国を旅行できただろうに…。

図説 太平洋戦争.jpg(池田清編・太平洋戦争研究会著/河出書房新社)


図解 太平洋戦争がよくわかる

日米開戦の前から、情報戦において負けていた日本

 『図説 太平洋戦争』と同じく、太平洋戦争研究会・編によるものだが、1テーマ4頁で簡潔にまとめられていること、また、『図説』にはなかった事実もいくつか掲載されており、太平洋戦争への理解を深めるにために役立つのでは思い読み進める。そして私の予測通り、今回も多くの発見や改めて感じたことがあった。

日本の暗号機を作り、日本政府の動きを察知

 戦争における戦力とは、戦艦、戦闘機、兵士の数だけでなく、情報戦を含めて考えなければならないものであり、情報戦こそが勝敗を分けるものだと知る。アメリカでは、暗号の天才といわれる文官のフリードマンと、海軍のサフォードの2人が、日本の暗号機そのものを作り、日米開戦の前から日本の外交暗号の解読に成功しており、日本政府の動きを察知していた。
 だから、アメリカは日本軍の真珠湾攻撃も事前に知っていた可能性が高い。ナチスの台頭に苦しめられていたイギリスから戦争参戦を要望されていたルーズベルトは、大統領選挙のときに、アメリカの兵士を戦場に送らないことを公約して当選したため、参戦できないという事情を抱えていた。だから、日本軍の真珠湾攻撃は、参戦する絶好の機会でもあったのだ。
 ルーズベルトは、満州で利害が対立していた日本に対して経済制裁を加えることで、日本が資源確保のいためにインドネシアに進出せざるを得なくし、アメリカとの戦争を決意せるように仕向けた。これが、「ルーズベルト謀略説」と言われるものだが、案外あたっているように思う。

兵士を縛った戦陣訓が、犠牲を拡大させた

 もう一つは、戦陣訓の中でも最も有名な一節「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」のことだ。この言葉がどれだけ多くの日本軍人の精神を縛り、玉砕へと向かわせたことか。
 先日、テレビを見ていると、玉砕命令を受けた戦場から帰ってきた老人たちが「戦後、生きていることが、ずっと辛かった」と語り、涙を流していた。
 兵士たちの心の中で、戦陣訓はいまも生きている。言葉のもつ呪縛性を改めて実感せざるを得ない。
 この戦陣訓の作成には、島崎藤村や土井晩翠などが加わっていたと本書にはあるが、本当だろうか。2人の名前と作品名を知ってはいるが、作品を読んだことがないので、戦陣訓とのつながりは分からない。


太平洋戦争がよくわかる.jpg(太平洋戦争研究会・編/日本文芸社)


戦争の日本近現代史

帝国列強の脅威にさらされ続けた日本の不幸

 なぜ、日本は無謀にも太平洋戦争を起こしたのか? 長年抱いていたこの疑問を解明してくれるのでは?という期待感からこの本を手に取る。

 この本は、明治から説き起こしている。それには理由がある。黒船のペリー来航以来、日本はつねに外敵からの恐怖にさらされ、緊張状態にあった。帝国主義という怪物が跳梁跋扈していた時代の不幸さでもある。それが日本の対外膨張主義へと発展し、風船のように膨らんだところで、太平洋戦争に突入し、敗戦によって風船は弾けた。無念ではあるが、ある意味、さっぱりしたのではないかとも思える。ただ、そこに至までの犠牲はあまりに大きかった。
 まず最初の読後感は、こういったものだ。

 いくつか印象的な部分を記しておきたい。
 西郷隆盛の征韓論への、僕自身の認識間違いである。といっても、たいていの人は、日本史の教科書で教えられた通りにしか記憶していないだろう。職を失った武士の不満を、対外的にそらすために唱えられたと。しかし、西郷ともあろうものが、要するに侵略主義を訴えるとは、ほんまかいな。そんな気持ちだった。
 だが、征韓論は、西郷だけでなく、吉田松陰も木戸孝允も主張している。文明国でない朝鮮は日本の属国になっても当然、という意識だったのだ。また、朝鮮に戦争を仕掛けることで、日本が維新の時のような元気さを取り戻せるとまで言っている。その背景には、元気さがないと、欧米列強に侵略されてしまうという危機感があったようだ。明治以降の時代とは、そういう空気がつねに存在していたのだ。

 「主権論・利益線論」があったこと。日本史の教科書には、これもなったなあ。山県有朋が唱えたもので、明治憲法の草案に尽力したウィーン大学の教授のシュタインの説からとったものらしい。日本の国土を守るには、隣接する領域を場合よっては武力で奪おうというもので、日本の場合は、この対象が朝鮮であった。

 日本の仮想敵国の最大は、満州事変までつねにロシアでありソ連であった。そして途中からアメリカが最大の敵となる。日露戦争で勝っても、山形有朋は、ロシアが復讐することを考えると憂鬱だった。そして満州事変は、革命で混乱し、ソ連の軍隊が弱体化しているときに、満州の北部まで手に入れようとしてもの。千載一遇のチャンスだったのだ。

 第一次世界大戦の衝撃の度合いも知る。これが従来の戦争観を変えてしまった。この戦争で負けたドイツを研究した日本は、これからの戦争は「総力戦」であること。そして資源に乏しい日本が勝つには、「経済封鎖に追い込まれないこと」。この2つだ。この資源問題は、明治以降ずっと意識されており、満州進出はもちろん、南太平洋への進出も、この資源確保の狙いがあったことは、誰でも知っていることだ。

 ここで改めて思う。侵略されるのが怖いから、こちらから打って出る。資源がないから、資源を取りに行く。こんな選択肢しか残されていなかったのか。
 中立国として侵略されずに、侵略もしない。そんな平和な道をもし日本が歩めたとしたら、どうなっていただろう。原爆も落ちず、特攻隊もなく、東京大空襲もなかっただろう。歴史に「もし」は許されないかも知れないが、二度と戦争を起こさないためには、「もし」を検証することは大切だと思うのだが。

戦争の日本近現代史.psd(加藤陽子著/講談社新書)


日本のいちばんながい夏

ポツダム宣言から玉音放送が流れるまで。
国際政治の非情さ、冷酷さ、酷薄さを知る

 昭和38年、文藝春秋掲載のために行われた座談会をまとめたものだ。
 ポツダム宣言が行われた7月27日から、対ソ和平工作を正式に申し込んだ8月5日、広島に原爆が投下された8月6日、ソ連参戦と長崎の原爆の8月9日、天皇が終戦の意向を漏らした8月10日、条件付き受諾の問い合わせに対する回答を傍受した8月12日、正式回答の公電が届けられた8月13日、天皇が終戦を聖断した8月14日、その後、陸軍の一部兵士によるクーデター未遂事件があり、そして玉音放送が流れた8月15日までを、参加者たちが、話しあったのだった。
 座談会に登場したのは30人。その30人は、内閣書記長長官(官房長官)、首相官邸記者クラブテスク、海軍作戦部長、共産産党幹部、海兵学校の生徒、外務次官、陸軍司令官、駐ソ連大使、陸軍省軍事課長、捕虜第一号、英国海軍水雷挺副長、首相秘書官、NHK アナウンサー、内閣総合計画局長官、沖縄の野戦病院看護婦、人間魚雷「回天」の生き残り、陸軍士官学校教官‥etc。
 御前会議の出席者、内閣の首脳、軍部の幹部、戦場で戦っていた兵士や幹部、捕虜になった兵士、沖縄で看護に当たっていた者などの、貴重な歴史的証言が続く。

 すべてが興味深い内容であったが、中でも駐ソ連大使の佐藤尚武氏の証言に注目したい。一番近くでソ連を知る者だからこそ、スターリンのソ連の冷徹さを知り、ソ連に仲介役を薦める日本政府の方針の無意味さと、早く終戦を迎えることを日本の外務省に打電した。しかし当局はこれを無視した。もし、この佐藤氏の意見を受け容れていたら、かなり事態は変わっていた可能性はある。

 もう一つ注目すべきは、原爆投下もソ連参戦もポツダム宣言以前に決められていたという事実だ。だからポツダム宣言を日本がすぐに受諾しても、原爆投下とソ連参戦を阻止できたかどうかは分からない。アメリカは原爆を使う気満々、ソ連は日本へ侵略したい気満々だったのだ。
 そして実際、トルーマン大統領は、27日のポツダム宣言の2日前、25日に投下命令を出していた。原爆投下の対象は、最初から日本であり、ドイツではなかった。明らかに人種差別があったのだ。一方、ソ連は、2月のヤルタ会談でドイツ降伏の3ヵ月後に日本侵攻をすることを決め、4月に日ソ中立条約を破棄。8月9日、満州へ侵攻を始めた。
 改めて国際政治の非情さ、冷酷さ、酷薄さを知った感じだ。


日本のいちばん長い夏.jpg(加藤陽子著/講談社新書)