書物の森

ほんまにオレはアホやろか

水木しげるは、アホではなく、原始的で想像力豊かな存在である

久々に面白い朝ドラ「ゲゲゲの女房」

 NHKの朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」がやけに面白い。欠かさず見ている。この朝の連続ドラマ、たいていは退屈きわまりなく、見続けることはめったにない。こんなに熱心に見るのは、「二人っこ」以来だろう。
 何が面白いかといえば、登場人物たちが一様に面白い。下手に作った人物像よりも、生身の人間をモデルにした方が面白いのだ。そんな面白い登場人物の中で、やはりとびきり面白いのが、「ゲゲゲ」の水木しげるである。
 本人が書いた「ほんまにオレはアホやろか」という本を書店で見つけたとき、即座に購入した。そして一気に読んだ。
 やはり面白い。生き様が面白い、発想が面白い。普通なら、単なる「変わり者」の範疇に入れてしまうに違いない。でもそれが間違いであることは、本書を読めばすぐに分かる。

戦時中も自由人だった。これは凄いことだ

 まずもって、水木しげるは、自由人である。小市民的規範から見事に逸脱している。プチブル的出世意識など、少年時代からこれっぽちも持ち合わせていない。だから学生時代、寝るのが好きな彼は平気で遅刻をするし、廊下に立たされても、運動場を走らされても平気だ。
 運悪く、時代は戦争へと突入し、彼も兵隊にとられた。最も自由が制限された戦時中も、彼のスタイルは変わらない。やはり集合時刻に遅刻する。上官からビンタの制裁を受けても平気だ。相手の方が根負けをする。しかし、これは凄いことだ。

ユーモアあふれた妖怪たちが、世界を豊かにしてくれる

 水木しげるは、原始的で、宇宙的で、生命力に溢れた、自然そのものに近い存在である。本書において、珍しく自分の世界観を披瀝した部分がある。
 「この地上に生まれてきたからには、その地上の神々がぼくを生かしてくれるに違いない。大地の神々にそむくようなことをせずにいれば、あくせくする必要はない、他の人から見れば不真面目でも、ぼくの生き方こそ真面目なのだ、こう考えていた。これは、どうやら、趣味で知った虫や妖怪の生き方に影響されたもののようだった。」
 この考えの延長線上に、彼が描く妖怪たちもいる。小さい頃、「のんのんばあ」と呼ばれるおばあさんから、さまざまな妖怪の話を聞いたことが、いまの水木しげるの創作意欲の源泉になったことは、多くの人が知っている。
 水木しげるのマンガに出てくる妖怪は、おどろおどろしい存在だけでなく、間抜けな妖怪が出てきたりして、ユーモアたっぷりだ。そこが他の妖怪とは一味も二味も違う点であり、人間の想像力を刺激し、心を豊かにする存在になっている。

パプアニューギニアでの話は、最高に美しい

 昆虫や妖怪と仲良くなれる人間にとって、戦時中に現地の人と仲良くなるのはたやすいことだった。
 敗戦で、パプアニューギニアから日本に帰るとき、現地の人たちとは「家も建てる、畑もやるから、ここに残ってくれ」と引き留められるほどの仲になっていた。また本人自身も現地除隊をして、そのまま現地で暮らそうと思っていたそうだ。あくせくすることなく、気軽に生きることができるニューギニアでの生活こそ天国だったのだ。

無念の気持ちで死んだ兵隊たち

 戦時中に、片手を失ったことも有名だ。普通の人間なら精神的に参ってしまうだろう。本人にとっては重大事である。ところがこの本ではわずか1行で終わってしまう。
 「目の前がぴかっと光って、あーっといったら、腕の負傷で切断である」
 他の本で詳しく書いたから(本当かどうかは知らない)、この本では簡単にすまそうとしたのだろうか。南方に従軍した兵隊にとって死は日常茶飯事である。片腕を失っても、生きていただけで、良かったという判断なのだろう。
 TVの中で主人公がいう。「南方では、無念の気持ちで死んだ兵隊たちを見てきた。だから生きている人には、同情しないんです」。
 ここの彼の達観がある。過酷な戦争を生きた人間だけが持ち得る視線があるように感じた。

NHKのテレビ放映中にこのコピーを書いたのだが、アップするのが遅れてしまい、すでに新しい番組に切り替わっている。相変わらずの愚図ぶりに我ながら嫌になる。

ほんまにオレはアホやろか.jpg(水木しげる/新潮文庫)

葬式は、要らない

仏教と葬式の関係をわかりやすく解き明かす

 「葬式は、要らない」がベストセラーになっている。本書以外にも、「お坊さんが困る宗教の話」「坊主の常識・世間の非常識」など、最近この手の本が出版され、いずれもそこそこ売れている。それだけ人々の関心は高い。

 考えてみれば、このところずっとデフレの時代、不景気な時代が続いている。スーパーでは商品価格を1円でも安くしようとしのぎを削り、ニニクロは驚異的な価格戦略で急成長を続けている。飲み屋も最近は、全品300円ぽっきりなんて店が流行っている。ところが葬儀費用だけが、いまもやけに高いのだ。

 だから、葬式やお坊さんに対して、人々が疑問と不満を抱いたとしても当然といえば当然。中でも戒名料の高さには呆れるしかない。そもそもなぜ戒名が必要なのか。なぜ仏教は葬式と結びついているのか。こうした根本的疑問から仏教を勉強しはじめた人も多い(実は、私もその一人なのだが‥)。

 この本の著者である宗教学者・島田裕巳氏といえば、どうしても、オウム真理教との関係が印象強くて、「信用できない」という先入観がついてまわる。それでも、関心のあるテーマなので、少しだけ立ち読みした上で購入した。
 彼がヤマギシ会に入っていたり、オウムと接近したのは、葬式仏教へと堕落した日本の仏教界に嫌気がさすと同時に、原始仏教のように厳しい戒律を通して悟りをひらこうした新興宗教に、シンパシーを感じたからだろう(と勝手に推測する)。しかし、この点に関しては、一般人の常識の方が、島田氏よりはるかに賢明だったと思う。麻原彰晃が、修行によって空中浮遊をしている写真を見ただけでも、インチキだと分かるはずなのだが。

 それはさておき、本書は、現段階で葬式仏教について書かれた本の中で、もっとも説得力のある本だといえよう。歴史的時代背景から説き起こし、さらに現代において、どう考え、どう取り組めばよいのかを示唆してくれている。

 中でも、「第3章 日本人の葬式はなぜ贅沢になったのか」は秀逸。学者らしく、仏教の歴史と葬式の関係を分かりやすく説明してくれている。

 奈良仏教は、お寺は仏教の教えを学ぶ場であり、葬式仏教の臭いがないこと。次に輸入された密教において、異界の存在が説かれ、浄土教信仰において、浄土の存在と、地獄の恐ろしさが強調された。法然が、念仏を唱えれば極楽浄土に往生できると説き、親鸞がさらに大衆化させることに成功した。
 そして禅宗である。中国で確立された禅宗は、祖先崇拝の儒教の影響を強く受けており、日本の禅宗である曹洞宗において、修行途中の僧侶のための葬式作法が、在家の信者にも適用され、それが日本の社会全体に広まっていった。これにより日本の葬式仏教の基本的な形態が確立されたという。

 神妙に座禅を組む禅宗のイメージと、曹洞宗の派手な葬式とがどうしても合致せずに不思議だった。なぜ、曹洞宗がこうした葬式仏教を考えたかと言えば、経済的基盤の確立のためだったらしい。ここで私は合点した。

 もう一つ秀逸だったのが、「自分で戒名をつけよう」という提案だ。その簡単な方法も紹介している。試みに私も作ってみた。「釈久薫」、あるいは「筆案久薫信士」あたりだ。もちろん仮戒名だけどね。

 島田氏に対しては、「なんだ、ちゃんとこれだけのことが書ける人物が、なぜオウムに?」との疑念は消えないが、この本は客観的にみても一読に値する。ちなみに同氏は、最近同じ玄冬舎新書で「戒名は、自分で決める」という本を刊行した。二匹目のドジョウを狙っているようだ。

葬式は、要らない.jpg(島田裕巳/幻冬舎新書)

なぜ阪神は勝てないのか?

タイガース再建への提言

読み終えずに寝ることは、きっとできない!

江夏が暴く、とんでもない事実

 スクープ記事満載の週刊誌を読むように、好奇心を風船のように膨らませながら、やめられない、とまらない、かっぱえびせん状態で、一気に読む。
 岡田と江夏の対談本だが、この対談を通じて2人の人柄や野球に賭ける情熱ぶりがよく分かる。岡田の頭の良さ、江夏の任侠肌、そして野球において豪快さと繊細さの両面を併せ持つ点なども、改めて理解できた。そしてこの本を通じて、多くの驚愕の事実もまた知ることができた。

 特筆すべきは、以前からの噂に関してだ。それは、阪神球団は、優勝を望まなかったこと。できれば2位が良いこと。優勝すると選手の年俸を上げざるを得ないからだ。それほどケチな球団という噂だ。
 僕自身は半信半疑だったが、今回、江夏が、残り2試合であと一つ、勝つか引き分けで優勝と言うとき、球団から呼び出され、負けてくれ!と言われたという。業界では既成事実だったのかも知れないが、この対談で初めて僕も納得した。う〜ん、情けない。

 それと西武ライオンズ時代の監督だった広岡の人格を疑うような話だ。管理野球を進める広岡は、選手に酒、煙草を禁止し、玄米食を食べさせていたが、自らは、隠れてがんがんやっていたそうだ。そして通風にもなっていた。「他人に厳しく自分に甘い」広岡に皮肉をいった江夏は、翌日から2軍落ち。二度と一軍のマウンドに立てなかったという。どこにでもいるような気がするが、やはり嫌な話だ。

 これ以外にも、鈴木啓治との投げあい、王との勝負、仰木監督のユニークさ、バッティング理論など、面白話が満載である。夜から読み出すと、翌日は、寝不足になること、間違いなしだ。

真弓阪神が勝てない3つの理由

 ここまで書いてから、本のタイトルに対する発言内容について、まったく触れてないことに気が付いた。そこで「なぜ真弓阪神は勝てないのか」の章を改めて読み直すと、次の3点に絞れる。
(1)勝利への執念の不足
(2)外国人選手の起用法失敗(とくにメンチを使ったこと)」
(3)選手へのフォロー不足(モチベーションの大切さ)

(1)については、具体的を挙げているが、細か過ぎるのでここでは紹介しない。(2)と(3)については、2人の発言を抜粋しておきたい。
・「メンチが使える」と判断したのが早すぎたと思いますよ。(岡田)
・外国人選手は、宝くじと同じだからね、メンチに限らず、過去に失敗談は多くある。(江夏)
・現在の阪神の海外の窓口は、トーマス・オマリーです。彼が推薦してくるんです。そりゃ、あきませんわ。(岡田)
・今年のような扱いは、赤星にしても、鳥谷にしても、モチベーションが下がると思うんですよね。
そういうフォローは大事でしょう。モチベーションは試合に影響しますよ。(岡田)
・今の阪神を見ていると、意思疎通がバラバラのように見えますよね。(岡田)
・コーチの人選も間違っているんじゃないかと思う。(江夏)

■私の予想。今年は、絶対に優勝だ!?

 この本は、2009年度のペナントレース終了間際の9月に発行されたものだ。結果は、ご存知のように4位に終わった。
 そして今年、2010年5月26日現在、2位と健闘している。
 本書で挙げられていた3つの点において、いずれもうまくいっているように思える。勝利への執念はもちろん、選手の起用法も積極的だ。そして外国人は久々の大ヒット。5月26日現在、マートンは打率.049で3位、ブラゼルは、ホームラン15本で2位だ。

 投手の故障が多くて、守りの面で苦戦を強いられているが、後半戦、彼らが復帰して活躍すれば、さらに戦力アップすること間違いなし。阪神が優勝した3回とも、前年は4位というデータが残っている。
 ということは、今年は、ひっとしたら優勝lかも。

なぜ阪神は勝てないのか?.jpg(江夏豊×岡田彰布/角川新書)

アジア新しい物語

変貌を続けるアジアを庶民の視点で切り取る

 野村進氏の著作を読むのは、これで2冊目だが一気に読んでしまった。いつも感心するのは、豊富な取材力、事象を多角的に捉える視点、根底に流れるヒューマンな魂などである。前回の著作『コリアン世界の旅』では、在日韓国人の問題を通じて、人間が抱く差別意識に肉薄した。そして今回は、アジアで活躍する日本人と、アジアの人々の現状をリアルに描いている。
 紹介されている国は、中国、ベトナム、フィリピン、韓国、タイ、インドネシア、カンボジア、マレーシア、インドの9カ国だ。中でも、行ったことのないベトナムとインドネシアに対して勝手に抱いていた先入観を見事にうち破ぶられ、とても興味深く面白かった。

 アジア諸国の現状を知るには現地に行くのが一番だが、観光旅行では、名所旧跡や料理を知ることはできても、庶民の暮らしぶりや実感を知ることは難しい。
 庶民の暮らしに、より密着した旅行と言えば、バックパッカーたちの旅行記があるが、彼らの視点には自ら体験した事実の羅列がダラダラと続くのだが、決定的に欠けているものがある。それは、問題意識のなさ、歴史的認識の欠如あたりだろうか。バックパッカーたちは、いかに安く旅行ができたか、いかに多くの人々と出会い、さまざまな体験ができたか。おおむねこの2点に集約される。野村氏が「あとがき」で書いているように、このレポートを、鳥瞰図的な視点と、虫瞰図的な視点を交差させながら進めた点に、成功の要因があるように思う。

 アジア事情といえば、深田裕介氏の『最新東洋事情』『激震するアジア』なども思い浮かべることができる。ともに興味深く読んだものだが、野村氏との違いは、深田氏の取材対象者の多くが、駐在商社マンである点だ。商社マンの情報網は、確かに幅広く、正確さにおいてもかなりのものだろう。だが、アジアを見る視点が、あくまでもビジネスの場としてどうかに力点が置かれているように思う。民主化の度合いも、ビジネスの場としてのカントリーリスクとしての視点なのだ。
 一方、野村氏の取材対象者は、日本に帰る商社マンではなく、現地に骨を埋めるつもりの、アジア定住の日本人たちである。職種も、不動産屋、神父、真珠養殖屋、柔道指導者など様々であり、彼らなりに悪戦苦闘している様子がリアルに描かれていている点に共感した。(2002.1,31記/2009.06.21再録)

アジア新しい物語.jpg(野村進/文春文庫)

蒼氓

移民とともに不安に揺れる

 「蒼氓」には、1930年当時の農村の状況、そしてブラジル移民を選択せざるを得なかった人々が、神戸にあった移住センターに集結してから、移民船に乗り込み、ブラジルの耕地(フェゼンダ)で生活を始めるまでの姿と気持ちが実に克明に描かれている。読み進める私自身、一緒に移民船に乗り込んだ気分で、45日もの間、大汗をかき、大波と不安に揺れるのだった。

 何年ぶりかに読み直して、改めて「この小説は、実際に体験しないとかけないはずだ」との想いを強くする。全国各地から集まった移民たちの方言ひとつとっても、その場に居わせなければ書けない。また、船の進行よって南十字星が微妙に位置が変わる場面の描写も体験者でないと無理だ。
 私の疑問は、移住センターを訪れたときに、きれいに解消された。石川達三は、やはり実際に船に乗り込み、レポートを新聞社に送っていた。そのレポートをもとにこの小説を書いことがわかった。

 ブラジルでの生活はもちろん楽ではないが、「税金も法律も及ばないような場所での生活の方が、法律や制度で抑圧されていた日本の農村での生活より、楽ではないか」という著者の指摘については、今後、じっくり探ってみたいと思う。

蒼氓.jpg(石川達三/新潮文庫)